娘の教育にコミットする

娘が3歳のころから公文(算数)に通わせている。
 
かれこれ2年近く通わせているが、まだ数字を完璧に理解できておらず、自分でどんどん進むこともできないので、宿題も親である私がついて見ておかないといけない。
私自身も同じくらいのころから公文には通っていたのだが、自分で言うのもなんだが、進み具合はけっこう早かったので、正直、親に宿題をやるのを見てもらった記憶がない(記憶がないだけかもしれないが)。
 
自分が娘の宿題を見ることを想定せずに通い始めてしまったので、正直めんどくさいと感じていた。
娘も娘で宿題をやるのはめんどくさいので、親がめんどくさがってやらせないと、当然やらない。
毎度宿題をやっていないということでは(親である私が)かっこわるいので、できるときに仕方なくやらせるという感じであった。
それも毎日コツコツやらせるのではなく、まとめてやらせるといった感じである。
 
たまに娘を実家に預けるのだが、そういうときは公文の宿題をもたせて、私の母親に見てもらうようにしている。
そうすれば、私が直接見なくてもいいので、楽ができるのである。
 
と、こんな感じで、娘を公文に通わせたはいいが、宿題見るのがめんどくさいというのが、正直なところであった。
 
そんな折、先日このブログでも書いたが、姪っ子が高校受験で合格した。
うちの娘から見ると、姪っ子は10歳年上で、娘の高校受験はまだだいぶ先の話だが、娘の教育のことについて考えるいいきっかけとなった。
別にいい高校に行ってほしいと思うわけではないが、10年後から見て、こんなサポートしてあげればよかったな、と後悔はしたくないなと思った。
娘がどういう道に進むにしろ、勉強ができないことで選択肢が限られるといったことがないようにしてあげたいと思うようになった。
 
そう思い始めて、娘の宿題を見るのも意識が変わった。
後ろ向きに仕方なくやるのではなく、やるからには前向きに取り組もうと思うようになった。
ただ宿題を終わらせるということだけではなく、わかる喜びや達成感のようなものを娘に得てほしいと思いながら取り組んでいる。
 
私の意識が変わったからではなく、たまたまそういうタイミングだったのだと思うが、最近娘の数字に対する理解が一段進んだように感じている。
勉強に限らず、何をやるにしても、習熟度は時間に比例して伸びるというよりかは、階段状に上がっていくことが一般的ではあるが、その階段を上がったタイミングを感じることができたのはうれしかた。
もしかすると、私の意識が変わっていなければ、その理解が一段上がったことを私が感じることができていなかったかもしれない。
 
この4月で娘は幼稚園の年長になり、来年からは小学校に上がるのだが、学校の授業が理解できるくらいのところまではサポートしてあげたいなと思った次第である。
 
ということで、同じことをするのでもマインドが違うと見え方が変わってくるという話でした。