コンプアンスの時代と言われる昨今。
昭和の時代からこの方、立場の弱い人が強い人から嫌なことをされても我慢しなければならない、ということが続いてきた。そんな風潮から一転、令和の時代はセクハラ、パワハラの類は許されない。そのこと自体は、基本的には良いことだと思う。
ただ、ちょっと気になるのは、本当に嫌なことを我慢しなくても良くなっただけでなく、ちょっとイヤなことも我慢しなくてもよくなってきた、ということ。コンプライアンスという薬が効きすぎて、個人の成長を阻害するなんてことになりそうな気がしている。
例えば、社内での飲み会。
夜遅くまで飲みに連れ回されて、一方的に先輩の話を聞くだけという、本当に嫌な飲み会を我慢しなくてもよくなるのは、一般的に良いことだと思う。
ただ、社内でのコミュニケーションを円滑するようなごく普通の飲み会があったとして、それも面倒だから行かない、ということまで許容されるになってきている。上司や先輩も、昔なら多少強引にでも誘っていたが、今では強要もできないので、行かないのなら仕方ないとなりがちである。
これが当人にとって本当に良いことなのかどうか、はなはだ疑問である。お酒が強くない、早く帰って自分のやりたいことをしたい、理由はいろいろあるだろうが、そこで得られる人脈やノウハウを得られる機会、何かあったときに助けてもらう可能性なども、失っているかもしれないのである。
また、組織の観点から見ても、社内の暗黙知的なコミュニティが築かれないということになり、長期的な弱体化につながる可能性は大いにあるだろう。
事程左様に、ちょっとイヤを簡単に拒否できるし、それが許容される時代だからこそ、そこに甘えずにちょっとイヤを受け入れるというスタンスが大事になってくるように思う。何も本当に嫌なことまで許容する必要はないのだけど、ちょっとイヤは試してみる、そんなスタンスが必要だと思うわけである。
そのためには、自分が本当に嫌なことと、ちょっとイヤだなと思うこと、その線引きをしておくことも大事。好きか嫌いかで線引きするのではなく、本当に嫌かちょっとイヤかで線引きして、その境目がどこにあるのか、そこを意識して自分自身理解しておくことが、これからの時代に求められるスタンスになるのではないかと思う。
ということで、ちょっとイヤを拒否できる風潮はいいことなのか、という話でした。