コインロッカー難民対策

先週は大阪・東京に出張に出ていたのだが、そこで困ったのがコインロッカーの問題。
大阪から東京に移動して、平日の昼過ぎに到着したのだが、そこから取引先に行くのに荷物(スーツケース)をコインロッカーに入れようと思ったら、ぜんぜん空きがないのである。
東京駅の構内にコイルロッカーが多数ある中、ここだけはだいたい空いているという穴場のロッカーがあって、他が空いていないときはここに行くのだが、今回はここもダメ。
見渡すと、私と同じようにコインロッカー難民の人たちが目に入ってくる。東京駅のコインロッカーはだいぶ増えてきているが、それでもまだまだ足りないようである。
 
以前、このブログでも、ターミナル駅のコインロッカーは最大需要を上回る供給が必要だ、ということを書いたが、最近は需要がさらに増加していて、平日でも対応しきれないくらいになっているようである。

 

chikaran.hatenablog.com

 
自分が知っているコイルロッカーがある場所を巡ってみたが空きがなかったので、店舗での荷物預かりサービス(Ecbo Cloak)も探してみたが、その日は夜が会食で、遅くまで預けたいのに対し、こういったサービスは遅くて20時までということで、利用することができなかった。
結局、仕方ないのでスーツケースをもって、タクシーで移動して取引先に行くことにした。
 
コインロッカーの需要を、もう少し細かく見てみると、今回の私のように駅に到着した後にホテルに行くまでの間で預けたいというパターンと、帰りの新幹線までに荷物を預けて買い物などをしたいというパターンの2つが大きなところかと思う。
前者の行きのパターンは昼頃から夜までの利用、後者の帰りのパターンは朝から昼とか、昼前から夕方までとかの時間帯に利用することになり、需要の時間帯がずれている。
 
で、先ほどの有人の荷物預かりサービスだが、営業終了が18~20時あたりと少し早め。だとすれば、帰りで荷物を預けたい人が、こういった有人の荷物預かりサービスを利用して、行きで預けたい人がコインロッカーを使えばいいようなものだが、当然のことながら、帰りの人のほうが早く駅に到着するので、先に(便利な)コインロッカーを使うということになってしまう。
全体最適を考えると、上述のように振り分けるのがいいのだが、現実にはそうはならない。となると、ここはもうコインロッカーの数をさらに増やすしかないだろう。東京駅でいえば、感覚的には1,000の単位での増強が必要ではないだろうか。
それだけのスペースが駅の構内にあるかわからないが、少なくとも丸ビルまで行けば地下の壁が大きく空いている。JRは三菱地所に頭を下げてでもコインロッカーを増設すべきかと思うのだが、いかがだろうか。
 
ということで、東京駅はコインロッカー難民であふれている、という話でした。

辞書という遺物

先日、うちの娘(小学二年生)が、国語辞典の申込用紙をもってかえってきた。
どうやら、三年生は辞書を使うらしく、持っていない人は買ってくださいね、ということらしい。
 
それを見て、最初はもうそんな辞書を使う学年になったんだと思っただけで、必要なら買わないといけないかな、と思ったのだが、次の瞬間すぐに、こんなものいらんだろう、と思い直した。
 
このご時世、(紙の)辞書を使って、言葉の意味を調べる大人は皆無と言っていいのではないか。
スマホかパソコンで、ササッとググるはずである。
あんな重い印刷物を持っている人も見たことなく、わずかにある需要といえば、試験のときに使うことくらいだろうか。
 
子どもはスマホを持っていないという反論があるかもしれないが、少なくともうちの娘の学校ではタブレットが配れており、これで調べればいい。タブレットなんて教育の効果を考えるといらないと思っていたが、言葉の意味を調べるという意味では、追加で辞書をもたなくてもよく、この点に限れば都合がいい。
ただでさえ、重いタブレットを学校にもっていくのだから、追加で辞書は絶対にいらないはずである。
 
いや、辞書だったら、ある言葉を調べたついでに、他の言葉を覚えられるという反論も出てきそうだが、どう考えても重い印刷物を持ち歩いたり、家の中で一定の空間占拠させるだけの理由にはなり得ない。
余談だが、学校のテストでは、「ケーキ」と「景気」、辞書で先に出るのどちらか?、といった問題が出るらしい。
マジでどっちでもいい。これがわからなかったからといって困ることは1秒もないはずないである。こんなことに大事な教育な時間を使ってるからダメなんだと憤りすら感じた。
(ちなみに上の問題、「けえき」と「けいき」なので、「景気」が先に出てくる。)
 
そんなこんなで、こんな国語辞典なんかいらんわと思ったのだが、さすがにそれで学校に喧嘩を売るつもりもないし、学校にもっていかないと授業についていけないだろうから、準備しないといけないだろう。
こんなことを母親に話したら、辞書だったら実家にあるし、妹の子どもたちのものもあるのではないかということだったので、そちらから譲り受けて使わせようと思った次第である。
 
ということで、辞書って遺物になりつつあるなと思った、という話でした

テレビは思ったよりも早く本当にオワコンになるかもしれない

姪っ子が大学受験に合格して、この春から大学生になる。
先日、そのお祝いでいっしょになったのだが、新居ではテレビは置かないと言っていて、ちょっと衝撃を受けた。
 
自分が大学生になったとき、もうかれこれ25年以上前のことだが、さすがにテレビを置かないという選択肢はなかった。
その後、社会人になったときも、大学院に行って再び学生になったときも、地元に戻ってきたときも、当然のことながらテレビは置いていた。
 
ただ、よくよく考えてみると、今では自分もテレビという受信機で、テレビ番組を見ることはほとんどない。朝にEテレ時報代わりにつけているくらいである。
テレビ番組はたまに見るが、これはほとんどスマホを使ってTVerで見るし、受信機のテレビはAmazonプライムビデオかYouTubeを見るのがほとんどになっている。これだって、スマホタブレットでも当然見ることができるわけなので、仮に私がこれから一人暮らしをするとしても、わざわざテレビを買わないかもなと思い直した。
 
姪っ子が生まれたが2005年。スマホが普及し始めたのが2009年あたりなので、完全にデジタルネイティブ世代である。テレビで育ってきたわれわれとは本質的な感覚が違う。
決まったものを、決まった時間に見るという習慣から、無数にある選択肢から好きなものを好きなときに見る習慣の転換は思っている以上に早く進行しているのだろう。
 
そう考えると、受信機としてのテレビも、コンテンツ制作の意味でのテレビ局も、思っている以上に早くオワコンになるのだろう。
受信機としてのテレビを製造するメーカーは他の製品を開発すればいいので、大きな影響はないだろうけど、テレビ局のほうはこれが本業かつ専業なので、待ったなしである。
テレビがオワコンなんて、だいぶ前から言われているが、それでもテレビ局がなくなるところとまでは多くの人は思っていないのではないだろうか。しかし、もう一世代進むころには(30年後くらいには)、テレビ局なんて会社は存在すらしていないかもしれない。
そんなことを、姪っ子との会話から思った次第である。
 
ということで、テレビのオワコン化は思っている以上に早いのかもしれない、という話でした。

年一オペレーションは覚えられない

昨日、ようやく昨年度分の確定申告を終えることができた。
確定申告をしだしたのは数年前で、前職がサラリーマンだったこともあり、確定申告の必要性とかもよくわかっていなかった。
あるタイミングで、自社株の買い取りかなんかで、税務署からツッコミが入り、税理士の力を借りて修正申告。追徴課税を受けて、それなりの金額を支払ったのを覚えている。
それ以降、自社株の配当や住宅ローン・ふるさと納税の控除などもあるので、毎年確定申告するようになった。
 
そんな確定申告だが、困るのは年に1回のオペレーションだということ。私の場合は、せいぜい配当収入や住宅ローンの控除、寄付の控除、保険料の控除くらいなので、そんなに複雑ではないのだが、毎年ここどうやってやるんだっけ、というところがいくつか出てくる。
 
これが月一くらいのオペレーションであれば、マニュアルでもつくって、作業にあたるのだが、年一のオペレーションにそれをつくるのはどうしても億劫になってしまう。それに毎年なんとかできているので、翌年も大丈夫であろうと、未来の自分を信じてそういったマニュアルをつくらずに放置してしまっている。
結局今年もどうにかなったので、何もしないまま。来年も同じことを繰り返すことになるだろう。
 
それにしても、税金のしくみは複雑である。
今でこそ、パソコンからウェブサイトに行けば、金額を入力するだけで計算はしてくれるが、これを紙でやっていた時代のことを思うと、ゾッとする。
前回からはウェブでの申請に切り替えたが、これも非常に便利で、税務署に行かずに済むのは助かるのだが、それでもこの複雑は税のしくみはどうにかならんかなと思ったりする。
 
とはいえ、ここでどれだけ文句を言っても、複雑化することはなっても、簡便なしくみになることはまずない。
となれば、IT化、DX化くらいはしっかりやってもらって、私もその恩恵を受けれるくらいにはテクノロジーに通じていようと思った次第である。
 
ということで、なんやかんやで確定申告という年に1回のオペレーションを、今年も無事に終えることができた、という話でした。

花粉症で咳込む

3月も半ば、今年も花粉症シーズンのピークの時期である。
今年も2月の下旬あたりから本格化、そこそこの花粉が舞っていると思われるが、今年はシーズン前からの内服薬と点鼻薬を活用していることもあり、とりあえずここまでは大きな症状もなく過ごすことができている。
ただ、娘(小学二年生)が今年から本格的に花粉症の症状が出だして、こちらの対応に苦慮しているという感じである。
 
そんな感じで私自身はとくに問題なく過ごしてきたのだが、先週末あたりから喉がイガイガしだしてきた。
そのうちに声も枯れてきたので、また風邪でもひいたかなと思ったのだが、喉も違和感はあるものの痛みがあるわけではなく、とくに熱が出るわけでもなかった。
 
これが、土日になると何か熱っぽさはあるのだが、体温を計ると平熱と、よくわからない症状が続いたのだが、夜寝ていると咳がひどくなり、夜中に何度も起きるといった症状が出始めた。
気管支炎のような感じで、一度咳が出ると止まらず、かなり苦しい咳に苦しめられている。
 
結局原因はよくわからないままなのだが、ふと見たとあるYouTubeの動画で、花粉症が原因で咳込むことがあると紹介されていた。
上述したように、鼻づまりやくしゃみといった典型的な症状は出ていないのに、咳だけ出るのも変とは思いつつも、どうやらウイルス性の風邪ではなさそうなので、今のところ花粉が原因の可能性が高いのではないかと思っている。
 
せっかく鼻づまりやくしゃみを抑えているのに、代わりに咳がひどいのでは意味がないなと思っているのだが、同じYouTubeで紹介されていた咳止めのトローチを服用したところ(これが効いたのかどうかはわからないが)多少症状は緩和。このまま治まってくれたらいいなと思う今日このごろである。
 
ということで、花粉症で咳の症状も出ることがあることを知った、という話でした。

3.11のメディアの空気

今日で東日本大震災から13年が経つ。
時が経つのは早いもので、もう13年か思うのだが、ここに来てテレビやウェブなどのメディアのこの震災に対する対応がちょっと変わってきたのを感じたので、ここにメモしておきたいと思う。
 
どう変わったかというと、端的に言えば、特集や特番を組んだりするのがだいぶ減ってきたなということ。
3年前にも、3.11に関する記事を書いたのだが、そのときは出張に出ていて、コロナで会食もなかったのでテレビでなんの気なしに特番を見ていたのだが、ちょうど10年の節目ということもあり、東日本大震災が大々的に取り上げられていたのを思い出す。
そこからさらに3年経った今年だが、そこから比べると、この震災の取り上げられ方がだいぶ変わっているように感じる。
 
たしかに新聞のテレビ欄を見れば、ニュース番組やワイドショーでは、東日本大震災の特集が組まれているようではあるが、ゴールデンタイムの特番とかはない。そういった特番も3年前の10年目のときだけで、それ以外はなかったのかもしれないけれど。
それに私が普段テレビを見ないので、目に触れていないから、そう感じるということもあったりするかもしれない。
 
ただ、ウェブの記事やポータルサイトの雰囲気をみると、やはり震災色は薄れている。
Yahoo!でも特設ページはつくられているが、これまでと比べると、一段トーンが下がっているように感じられる。
 
実際のところ、メディアへの取り上げられ方がどのくらい減っているのか、定量的にはわかっていないのだが、仮に減っていたとして、それ自体は良いとも悪いとも思わない。ちょっと冷めた見方なのかもしれないが、そんなものだろうなと思う。
いわゆる復興も、完全に成し遂げられたわけではないだろうが、ある程度のところまで完了し、復興フェーズは終わって、成長にもっていかないといけない段階。
震災の教訓自体はきちんと語り継いでいく必要はあるが、それをどこまでやるかは、その時代時代の空気が決めるのだろう、と思った次第である。
 
ということで、取り留めのない文章になってしまったが、東日本大震災も10年が過ぎて、徐々に歴史の出来事になっていくんだろうなと感じた、という話でした。

映画ドラえもんを見て感じた、映画のプライシングに関する考察

先日、家族で上映されたばかりの映画ドラえもんのび太と地球協奏曲」を見てきた。
封切りされたばかりということもあり、お客さんもそこそこの入り。子どもたちは楽しんで見ていたようで、行ってよかったかと思っている。
 
映画ドラえもんといえば、宇宙や地底、海上といった地理的に移動した世界か、過去にタイムトリップする時間的に移動した世界か、パラレルワールドに移動した世界のいずれかを舞台にして繰り広げられる。
映画ドラえもんは今回で43作品目ということで、あらゆる設定で物語がつくられてきているため、これまでやってこなかった設定で物語をつくっていかなければならず、監督ならびに脚本家は大喜利的に新しいことを考えねばならず、大変なんだろうなと思ってみたり。
今回は宇宙を舞台に、時間的な要素も入れながら物語が展開。最近ではこうした舞台設定に加えて、時代を反映した社会問題を扱うことが多く、今回は新型コロナウイルスをモチーフとしたようで、集権的に指示するような明確なボスがいない設定で、いろいろな工夫をしながら物語をつくっているんだな、と感心した。
一方で、映画版にしか出てこないキャラクターの属性や背景の説明が中途半端だったり、伏線の置き方などちょっと雑だなとも思った。
よくこういった物語は、大きな嘘は1つだけついていいが、小さな嘘はついてはいけないと言われるが、最近のドラえもんでは都合のいい設定が多く、小さな嘘がいくつか散見され、子ども向けの映画とはいえ、もう少し丁寧につくってほしいなと思ってみたり。
 
さて、映画の感想はそのくらいにして、本題は映画館のプライシングについて。
今回、家族4人で映画を見に行ったのだが、観覧料は大人2,000円、子ども1,000円で計6,000円。加えて、飲み物やポップコーンなんかも買うと、こちらが4,000円弱。計10,000円近くの費用がかかった。
物価上昇の折ではあるが、家族で10,000円のエンターテイメントとなると、そう頻繁に行ける額ではない。せいぜい年に2~3回くらいというのが一般的となるのではないだろうか。
 
これを映画を配給する側から見るとどうだろうか。
上述したように、今回はまあまあの入りではあったが、それでもおそらく稼働率は30~40%くらい。今回見たシアターの座席数は約200席くらいだったので、人数的には60~80人くらいだったのではないだろうか。これでも多いくらいで、封切りからちょっと時間が経つと、20%くらいの稼働率が一般的かと思われる。
 
それであれば、もう少し価格を下げて、観客数を上げる施策も考えられるのではないかと思った。稼働率をもっと上げて、空席を減らせば売上はもっと上がるのではないか、と。
私が子どものころは、それこそドラえもんの映画を見に行こうものなら、自由席だったので、座れないこともしばしばで、階段に座ってみたこともあった。そのくらいの稼働率になれば、少々値下げしても収益的にもプラスになるのではないかと考えた。
 
そう考えたのだが、次の瞬間、やはり価格を下げるのは悪手なのではないかと思い始めた。
価格を下げることによって、観客は増えるのかという問いに、自信をもってYESとは言えないなと思ったからである。
経済学的に言えば、価格弾力性がそんなに高くないということ。いわゆるエンターテイメントが多様化してきており、とくに映画あたりは、ちょっと待てば無料で見ることもできる世界で、そもそも映画館に来ないような層は、価格を少しばかり下げたからといって、足を運ぶことはないと考えたほうが妥当なのではないかと思えてきた。
 
そんな感じで、映画産業自体がシュリンクしていく中、それでも残っている顧客から高い単価をもらうのが妥当な戦略なんだろうな、と改めて思った次第である。
 
ということで、映画を見に行くにはそこそこまとまったお金が必要になってきている、という話でした。