【サッカーワールドカップ】決勝戦雑感

サッカーワールドカップが終わった。決勝はスペインが1-0でアルゼンチンを下して、2010年大会以来2度目の優勝となった。

 

この決勝戦、私はと言えば、前日、翌日が決勝ということを忘れて夜ふかしをしてしまい、作戦変更で後半から見ることに。朝は予定通り5時に起きたら、まだ後半戦が始まっていなかったのでおかしいなと思ったら、ハーフタイムショーをやるってニュースを見たことを思い出した。

そんなこんなで後半戦の最初からテレビで観戦。前半はよくわからないが、後半はスペインが攻勢をかけるという展開。アルゼンチンはたまにカウンターをしかけるという感じで、想像していた以上に一方的な展開にちょっと驚いた。後半終了間際にアルゼンチンの選手が2枚目のイエローカードで退場。これが影響したのかどうかわからないが、延長戦でスペインが得点してそのまま終了となった。おそらく退場がなくても、スペインが勝っていたのではないだろうか。

アルゼンチンはイエローカード2枚目の前に選手交代しておけばと思ったが、後から確認してみると、1枚目のイエローカードの時点で交代枠はすべて使っていた模様。致し方ないということか。

 

せっかくの決勝だったので、最初から見たかったのだけど、忘れていたのだから仕方ない。決勝戦の日時と時間は事前にチェックはしていたが、忘れるくらいだし、少々夜ふかししたからと言って早起きすればいいものだが、そこまでしようとは思わないくらいの関心度ということか。

何はともあれ、1ヶ月以上続いたワールドカップも終了。スポーツの世界大会はやはり面白い。あと何回見れるのかわからないが、こういう機会は逃さずにチェックしていきたいと思う。

 

ということで、サッカーワールドカップの決勝戦が行われ、全日程が終了した、という話でした。

工場も学校もカメラが当たり前の時代になるかもしれない

直近、うちの会社の工場で問題があり、カメラの設置を検討している。そうでなくても、今は大手企業を中心に見守りカメラということで、安全対策目的でカメラを設置することが増えてきている。災害や何か問題があった際、動画が残っているということは事実確認しやすいことは間違いない。どこまでカメラでカバーすべきか、技術的な問題もあれば、プライバシーの問題もあるので、一概にはいえないが、時代の方向性としては、こういった記録をしておくことが主流になりつつある。

 

一方で。昨日のこのブログでも書いたように、うちの娘が学校でいじわるをされているという問題で、二者面談に行ってきたのだが、娘の言っていることと担任の言っていることにニュアンスの違いがあり、困惑した。双方の言い分は矛盾するものではないのだが、言い方の違いからか、受け取る印象がまったく異なるのである。要するに、娘からすると担任から邪険に扱われたと感じているし、担任としては適切にサポートしたということで、双方の言い分は絶妙に異なっているのである。

ここで、この担任がどういう思いをもってうちの娘と接したのか、について議論しても埒が明かないだろう。たとえ、誠実に対応していなかったとしても、それは本人にしかわからないことだし、そのことを認めることはないだろう。

 

ただ、もしカメラが設置されていて、そのときのやりとりが記録されていれば、どういったニュアンスだったか、後で確認することができる。もちろん、見る側のバイアスもあるだろうが、複数で確認すれば、誠実に対応してくれたのか否かがわかるのではないか、とふと思った。そして、そういうカメラの設置は遠からず行われるかもしれないなとも思った。

 

ここで言いたいことは、そういったカメラの導入をしてほしい、ということではない。むしろ私の意見としては、学校のクラスへのカメラ導入については否定的である。ただ、何か象徴的な事件がどこかで起きたとすると、カメラの導入が一気に進むようなことがあるかもしれないと思った、というわけである。

 

マンションなんかは公共エリアのカメラは当たり前だし、上述したように工場では設置が進みつつある。学校も含めて、あらゆるところで記録に残すということが主流になっていく時代になっていくんだろうなと感じた、そんな二者面談の話でした。

 

chikaran.hatenablog.com

娘の学校の二者面談に行ってきた

今日、小学5年生の娘の、学期末の二者面談に小学校へ行ってきた。

通常であれば、こういった面談は、成績のことを聞いて、学校のことについてあれこれ聞いたり、雑談したりで終わるものだが、今回は明確な目的をもって、行ってきた。

その目的は、娘が学校に安心して通えるがどうかの確認、というもの。

5年生になってから、クラスの男の子からいじわるをされることが多く、加えてそれを担任が助けてくれないとのことで、最近学校にも行きたくないと言い出している。この点について、その担任に現状と今後の対応について確認したいと思い、学校に行ってきた。

 

娘が2年生のときも同様のことがあった。このときの担任は新卒の2年目で、私から見てもクラスを統率できていないという感じだった。その後、3,4年生のときは比較的ベテランの男の先生が担任で、悪ガキたちもおとなしかったようで、娘が直接嫌がらせをされることはほとんどなかった。

それが今回5年生になって、再度男の子たちの態度が悪いようで、どうも先生も統率しきれていない模様。今回はベテランの女の先生で学年主任なので、問題ないだろうと思っていたら、そんなことなかったというわけである。加えて、(少なくとも娘から見ると)先生は助けてくれない、ということで、実際にどうなっているのか、今回の面談で確認してくることにした。

 

で、面談に行ってきたのだが、感想としてはのれんに腕押し、といった感じ。男の子にいじわるされていること、それに対して先生が助けてくれない(と娘が思っている)ことを伝えたところ、前者としてはそういうことはあると認める一方で、後者に関してはいやいやサポートしてますよ、という返答。

例えば、ある男の子が娘の椅子に虫を乗っけたときのこと。虫が嫌いな娘は泣き出したらしく、それに対して先生は「そんなことで泣くな」と言ってきた(らしい)。このことを確認すると、先生曰く、最初はこれはよくないねと男の子を注意し、娘にも声がけはしたが、泣き止まなかったので、「もう泣かんのよ」と言ったとのこと。

他にもいくつか具体的な事例で、その担任がどんなことを言ったのかを確認すると、同じような感じで、どちらの言い分もあり得るなといったものだった。

考えられることとすると、口調の違い。実際は、娘にとって厳し目に聞こえる口調だったのに対して、私にはやさしい口調で説明している、という可能性は大いにあり得る。

いずれにしろ、今でもきちんとサポートしているし、助けている。これからもそれはきちんとやる、と言われた手前、それ以上ツッこむわけにも行かず、今後も何かあれば娘には先生相談するよう言うし、サポートをお願いしたいと言って帰ってきた。

 

問題は、この担任が今現在、きちんとサポートしている、できていると認識していることか。それに対して、娘は助けてもらえないと思っている。ここに齟齬がある。担任がこれでいいと思っているのであれば、2学期以降も(娘にとって)改善が図れるかは微妙かと思った。娘ともう1度よく話をして、2学期以降の作戦を考えたいと思う。

 

ということで、娘の小学校の二者面談に行ってきた、という話でした。

多くの人は見聞きしてきたものからしか選択できない

前回のこのブログの記事で、子どもは親が知っているものではないと選択するのが難しい、ということを書いた。とくにテレビを見ることが少なくなった今日このごろ、この傾向は強くなっているように感じる。

これって要するに、子どもは自分が見聞きしたものしか選べないということなのだが、よくよく考えると大人だって同じなのかもしれない。

 

われわれは何かを選択する際、自分が知っているものの中から選ぶ。当たり前と言えば当たり前のことだが、意外と盲点のような気がしている。

例えば、就職活動。世の中には無数の会社があり、無数の職があるが、あくまでも自分が知っている中からしか選べない。学校選びもそう。海外の学校を知らない人には、留学という選択肢はないわけである。

 

自分の中で何か新しいものを生み出した、と思っていても、それはせいぜい知っている既存のものを組み合わせたに過ぎない。何か本当に新しいものを生み出せるのはごくごく限られた人だけである。

 

そう考えると、何か新しいものに触れる機会を自らつくっていかないと、人生の選択肢は増えていかない。その新しいものがその後に役に立つかどうかはわかないけど、思わぬところで何かに結びつくかもしれない。これはとくに若い人には言えることだと思うが、私のようにもう50代が目の前の人間も肝に銘じておかないと、手札はこれまでの限られた選択肢の組み合わせだけになってしまう。

子どもの可能性は無限ではないかもと、前回書いたが、逆におじさんだからこそ、新しいもの触れて可能性や選択肢を広げることに貪欲にならないといけないなと感じた次第である。

 

ということで、人は自分が知っているものの中からしか選択できない、という話でした。

 

chikaran.hatenablog.com

子どもの可能性は無限大と言うけれど

うちの子どもたち(小学5年生の娘と幼稚園年長の息子)が囲碁教室に通いはじめて、約1年がたった。

娘は、もっと早く習わせてくれたらよかったのに、と最近よく言う。そうしてくれていれば、もっと大会でも勝てていたし、(ちょっとだけ囲碁をかじったことがある)パパにも勝てたのに、と。

囲碁自体は、私の幼稚園のころから友人が、囲碁教室の役員のようなものやっており、その関係で通わせることにした。私自身はその友人の影響で子どものころにちょっとだけおしえてもらったことがあり、ルールだけはわかっているという感じ。

 

そんな娘の発言や、子どもたちの様子を見ていると、子どもが選択できる習い事というのは、ほとんどの場合、親の影響下にあるものに限られてしまうよな、と思った。あとは、仲の良い友だちの影響が多少あるくらい。

で、何が言いたいかというと、よく子どもの可能性は無限大と言われるのだが、これって間違ってはいないけれど、実は選べる可能性はごくごく限られていて、親としてはそれをもう少し意識したほうがいいのではないかと思った、ということ。親が見たことも聞いたこともないことをやらせることは、ほとんどの場合できないのである。

とくに最近は子どもたちがテレビを見る機会が減ってきている。お手軽な動画サービスに流されている結果、偶然の機会に出会う確率は減ってきており、今自分が好きなものに触れることばかりになりがちである。

 

もちろん、親が知っているものを子どもがやるのが悪いと言っているわけではない。ただ、無自覚に子どもの可能性は無限大だ、と思っていると、気づいたら何にも触れずに成長してしまっているということになりかねない。何も親がやらせたいことを押し付ける必要はないけれど、こんなこともあるよ、あんなこともあるよ、といろいろと見せていかないと、無限大の可能性はどんどん小さくなってしまうのではないかなと思った次第である。

 

ということで、子どもの可能性は無限大ではないかもしれない、という話でした。

小布施見にマラソンを走ってきた

この週末、小布施見にマラソンに参加してきた。

この小布施見にマラソンは毎年7月に長野県小布施町で開催されているハーフマラソンの大会で、私は大学院在籍時の2008年に同級生を誘って参加したのがはじめて。以後、同窓会代わりに毎年集まってみんなで走っている。途中、地元の団体の活動が忙しくなり、2014年から17年までは参加できなかったのだが、2018年からは復帰。そこからコロナで開催されない年もあったが、基本毎年参加していて今回14回目となった。

毎年、近くで前泊して、夜食事をみんなでとって、翌朝早くに出発するのだが、若いころは飲みすぎて、二日酔いになりながら走るなんてこともよくあった。しかし、近年はみんな年をとったこともあるのか、酒量が明らかに減ってきている。今年に関しては、ビール2杯程度。これでは二日酔いになりようがない。

朝は3時過ぎに起きないといけないので、早めの就寝。ただ、こういうときは大抵寝れないもの。今回も案の定なかなか寝付けなかったが、横になっているだけでも疲れは取れると言い聞かせ、布団に横たわっていた。

さて、そんなこんなで、翌朝を迎え、準備をしてスタート地点へ。

この大会は地元のボランティアのみなさんのおもてなしや、食料などのエイドが充実していることが有名。オペレーションも完成の域に入っており、今回も何の不満もなく走ることができた。

前回は2時間4分台ということもあり、今回は2時間切りを目標にスタート。いつもはけっこう後ろのほうからスタートして、最初なかなかペースに乗れなかったので、今回は少し前のほうからスタートした。

前方からのスタートということで、号砲から1分程度でスタート地点を通過。これまではだいたい5~6分かかっていたので、スムーズにスタートできた。最初の入りもいつもより早めで上々のスタートとなった。

しかしながら、5km過ぎても、10km過ぎても、なかなかペースが上がらない。多少は上がっているのだが、思ってたように上がらない。膝や脚の裏が痛いということはなかったのだが、終始お尻あたりが重く、気持ちよく走れる時間帯がなく、終盤へ。最初、もう少しゆっくり入ったほうがよかったのかとか、2日前にやった筋トレがいけなかったのかとか、原因を考えながら走っているうちに最終盤へ。

最後の1kmはスパートかけたのだが、それでも結果は去年とほとんど同じタイム(厳密にはちょっと遅くなった)で、目標達成とはならなかった。

言い訳はいろいろと考えられるのだが、根本的にはスピード練習できていなかったのが大きなところか。長く走ること自体はやってきたし、抵抗なくできるのだが、ここからハーフで2時間切りとか、フルでサブ4を目指すのであれば、もっと速いペースで楽に走れるようにならないと実感した。6分/kmのペースでいくら長時間走れても、サブ4には届かないのである。

そんな感じで改めて課題を実感した今回の大会。アルコール量の減少などで加齢を感じてはいるが、走るほうではそれに抗って、もう少しタイムを縮められるよう、ここから練習をしていかなければと思った次第である。

ということで、毎年恒例のハーフマラソンを走ってきた、という話でした。

対象物と言葉の対応

今、下の息子が幼稚園の年長なのだが、ひらがなや数字を覚えるのに苦戦している。

一般的にこの年齢でどのくらいの習熟しているものか、AIに聞いてみたところ、幼稚園年長の目安は、ひらがなの「読み」が約90%、「書き」は約60%、数字の「1〜10」の読み書きも約90%とのこと。

息子を見ていると、かなりおぼつかない感じで、ちょっと心配な今日このごろ。

 

例えば、数字を1~10まで順番に言うことはできるのだが、6を指して「ロク」とすぐに答えることができない。また「ロク」はどれと聞いて、すぐに6を指すことができない、といった具合である。

数字で言えば、順番の概念と量の概念があるが、これもあやふや。3つくらいまでならわかっているようだが、それ以上になるとおぼつかない。

 

ひらがなも、自分の名前は書けるようになったが、それ以外は書くのはもちろん、読むのもできない。数字もそうなのだが、音と文字の1対1対応ができていないように見える。

1対1対応ができていないという点では、人に対してもあやふやで、父親である自分を見て、「せんせい、ママ、あ、パパだ」といった感じで、とりあえず大人に当てはまる言葉を言っていって、ようやく気づくといった感じなのである。

 

今は幼稚園ということで、息子自身も親である私も、とくに問題があるというわけではなく、不自由なく生活できているのだが、これが小学校に入るとそうもいかない。このままだと勉強についていけなくなる可能性も高く、今のうちに何かできないか模索している日々である。

とはいえ、あわてても仕方ない。普段の生活の中で、子どもに向き合う時間をつくり、こういった概念を理解できるよう、投げかけていくしかないのかなと思った次第である。

 

ということで、年長の息子の言葉や数字に対する習得が気になる、という話でした。