「やっててよかった公文式」が提供する本質的な価値

娘(3歳)が幼稚園に入ったのを機に、以前から気になっていた公文の無料体験に行ってみた。
自分も幼少のころから公文に通っていたのだが、母親曰く、公文だけは自分でやると言ったらしく、引っ越しを機にやめる中学2年まで継続していた。公文は学年に関係なく各自のペースで先の学年の内容に進むことができるのだが、記憶では常に3学年くらいは先を進んでいて、小学校に入ってからずっと算数・数学は得意だった。公文をやっていることで他の子どもと比べてアドバンテージになっていたのは間違いなかった。
 
そんな自分も経験もあり、娘も楽しくやれそうだったらやらせてみようかなと思っていたところ、ちょうど無料体験のチラシが目に入り、教室に行ってみることにした。
結果としては、思った以上に楽しくやっていて、もっとやりたいと言っているくらいである(先生曰く、ちょっと足りないくらいがいいらしく、このあたりも人間というか子どもの本性をついてる)。この年ごろの子どもは、新しいことは何をやっても楽しいのだろうけど、えんぴつをもって紙に書くという行為が思いのほか楽しいらしい。
 
楽しくやれそうだから継続しようかなと思ったのだが、これだったら本屋でドリルで買ってきて私が自分でやらせてもいっしょなんじゃないかなとも、ふと思った。公文であっても、どうせ家では自分がいっしょにやるし、当面は教室に行っても隣についているのだろうから、わざわざ通わせなくてもいいのではないかと。費用面でもかなり安く抑えられるはずだ。
 
しかし、さらに次の瞬間、おそらくそれだと継続しないだろうなと思い直した。当然、私も時間のある日もあれば忙しい日もある。親が忙しかったり、疲れてたりしたら、今日は休んで明日やればいいかとなるのは火を見るより明らかだ。
 
だとすると、公文式というのは本質的に何の価値を提供しているのだろうか。考えてみた結果、「学習のペースメーカー」であり、さらにその先にある「学習の習慣化」にあると気づいた。公文で先生が勉強をおしえてくれるというのは、それ自体に価値がないわけではないが、そこが本質的な価値ではないのである。それだけであれば、少なくとも幼児期であれば親でもできる。しかし、それを継続するのは難しい。だから、公文の価値を買うのである。「ペースメーカー」というのは、子ども学習のペースメーカーであると同時に、親のペースメーカーという側面も強いのである。
 
私淑する楠木建先生がライザップの本質的な価値は「強制」だ、と喝破されていたがそれと似ている。ライザップもダイエットの理論やメソッド自体は書籍やネットからでも得られる。その情報自体に価値があるのではなく、継続させるための強制力に価値があるのである。ちなみにライザップの提供する強制力は、トレーナーが徹底的に管理してくれるからだけではなく、高額な費用を払ってしまっているため止めるに止められないということも大きな要素なっている。仮に価格が安かったら、ここまでの成果は出ないだろうし、ビジネス的にも成功していなかったであろう。
 
話は戻るが、公文側としたら、新しいことは何でも楽しいと思う幼児期から囲い込んで、それこそ小学校卒業するくらいまで継続してもらうというのが基本的な戦略なのであろう。娘も楽しんでいるようなので、そんな公文の戦略にはまって、とりあえず無料体験終了後も継続してみようかと思っている。