辞書という遺物

先日、うちの娘(小学二年生)が、国語辞典の申込用紙をもってかえってきた。
どうやら、三年生は辞書を使うらしく、持っていない人は買ってくださいね、ということらしい。
 
それを見て、最初はもうそんな辞書を使う学年になったんだと思っただけで、必要なら買わないといけないかな、と思ったのだが、次の瞬間すぐに、こんなものいらんだろう、と思い直した。
 
このご時世、(紙の)辞書を使って、言葉の意味を調べる大人は皆無と言っていいのではないか。
スマホかパソコンで、ササッとググるはずである。
あんな重い印刷物を持っている人も見たことなく、わずかにある需要といえば、試験のときに使うことくらいだろうか。
 
子どもはスマホを持っていないという反論があるかもしれないが、少なくともうちの娘の学校ではタブレットが配れており、これで調べればいい。タブレットなんて教育の効果を考えるといらないと思っていたが、言葉の意味を調べるという意味では、追加で辞書をもたなくてもよく、この点に限れば都合がいい。
ただでさえ、重いタブレットを学校にもっていくのだから、追加で辞書は絶対にいらないはずである。
 
いや、辞書だったら、ある言葉を調べたついでに、他の言葉を覚えられるという反論も出てきそうだが、どう考えても重い印刷物を持ち歩いたり、家の中で一定の空間占拠させるだけの理由にはなり得ない。
余談だが、学校のテストでは、「ケーキ」と「景気」、辞書で先に出るのどちらか?、といった問題が出るらしい。
マジでどっちでもいい。これがわからなかったからといって困ることは1秒もないはずないである。こんなことに大事な教育な時間を使ってるからダメなんだと憤りすら感じた。
(ちなみに上の問題、「けえき」と「けいき」なので、「景気」が先に出てくる。)
 
そんなこんなで、こんな国語辞典なんかいらんわと思ったのだが、さすがにそれで学校に喧嘩を売るつもりもないし、学校にもっていかないと授業についていけないだろうから、準備しないといけないだろう。
こんなことを母親に話したら、辞書だったら実家にあるし、妹の子どもたちのものもあるのではないかということだったので、そちらから譲り受けて使わせようと思った次第である。
 
ということで、辞書って遺物になりつつあるなと思った、という話でした