落第をもっと一般的にしてもいいのではないか

うちには子どもが二人いて、上の娘は今年小学校の入学した。
幼稚園のときは、公文で英語を習っていたくらいで、勉強に関しては放置という状態だった。
自分で言うのも何だが、私は子どものころから勉強はできたほうだったので、どうにかなるだろうくらい感覚でいた。
 
これが、いざ娘が小学校に入るとそうも言っていられない状況にあると気づく。
ひらがなの覚えは遅いし、足し算・引き算の計算もままならない。夏休み前の担任の先生との面談で指摘をされ、これはどうにかしないといけないとなった。
 
私はとくに娘が勉強ができる必要はないと思っているのだが(もちろんできるならそれに越したことはない)、ただ学校の授業についていけず学校生活が面白くなくなるということは避けてあげたいと思っている。
いい成績である必要はないが、授業の内容がわかる程度ではあってほしいと願っている。
 
そんなこともあって、夏休みからは私の母親にもサポートしてもらって、ひらがなや計算の練習を毎日続けている。
そのかいもあって、多少遅れは取り戻せたかとは思うが、一方でどんどん先に進んでいくので、やはりついていくのがやっとという感じである。
 
そんな娘を見てて思うのは、学校においてもっと落第というものを一般的にしてはどうだろうか、ということ。
今の学校制度は年齢で区切って、その区切りで学習内容が進行していく。
ただ、当然のことながら、その同学年の中でも理解の早い子もいれば、遅い子もいる。
で、理解の遅い子は、いったんついていけなくなると、ずっとついていけないままになってしまう場合が多い。理解の早い子に比べると、その差は大きくなるばかりである。
それであれば、理解が遅い子はもう1度同じ学年の内容をやることによって、理解してから次に進むということを行ったほうが、後から見れば多くのことを身につけることができるのではないかと思うわけである。
 
どんなに勉強が苦手な子でも、いずれひらがなはわかるし、四則演算はできるようになるし、時計も読めるようになる。
だったら、わからないところをかかえたまま次に進むのではなく、理解できてから次に進むのでいいのではないかと思う。
 
ただ、現在の落第(という言葉の響きが悪いので違う言葉を使ったほうがいいとは思う)のイメージは、かなりの例外でかなり落ちこぼれたという印象を与えてしまう。
そうではなく、少しでも理解が遅れていれば、積極的に落第という制度を活用するくらいでちょうどいいかと思う。だいたい2~3割くらいが対象になるくらい、カジュアルに運用すればいいのではないだろうか。
そうすれば、無理をせずに内容を理解でき、学校の授業がわからなくて面白くないという子どもが減ると思うのだが、どうだろうか。
 
ということで、義務教育においても落第をもっと一般的にすればいいのではないか、という話でした。