文才とは、子どものときの読書量に比例するのかもしれない

私はそこそこ本を読むほうだと思っている。
と言っても、現在は月5冊程度。一番多かった時期は月に10冊程度読んでいたので、まあまあの読書量だったと思うのだが、現在でも同年代の平均から比べれば多いほうだと思う。
私が本をきちんと読み出したのは社会人になってからで、そこから考えると20年程度なので、年50冊平均としても1,000冊以上の読書量にはなっているかと思う。
1,000冊と聞くと、そこそこ読んできたなと感じるのだが、一方で文章を書く能力は一向にうまくならない。
 
別に文章力を上げようと思って本を読んできたわけではないのだが、読書量が増えたからといって、文章力が上がった実感はまったくない。
こうやって毎日ブログを書いていると、とりあえず一つの記事にまとめる時間は短くなっているが、いわゆる文才(文章を巧みに書く才能)は平行線のままである。
 
よく読書量と文章力は比例とすると言われるが、あれは本当だろうか。少なくとも私の場合は当てはまらない。
そこで、私なりに考察してみた結果、おそらく文才とは子どものころの読書量に比例するのではないだろうか、という仮説に行き当たった。
 
パッと思いつく文章の上手い人を想像してみると、たしかに読書家が多いのだが、それらの人々は子どものころから本を読んでいる。
例えば、私が私淑している、楠木建先生やちきりん氏などは、子どもころからよく本を読んでいたと言っている。私が学生のころのとある友人も、文章がうまく文才あるなと思っているのだが、この友人も私に比べると子どものころの読書量が多い。
 
もし、この仮説が正しいとすると、私が今後どんな本を読もうが、それによって文章を書く能力が上がるわけではないということになる。
だとすれば、それはちょっと悲しいことだが、仕方がない。もう少し自分に文才があればなと思うことはしばしばあるが、これを上げていくのは難しいのだろう。
 
今さら子どもには戻れないので、読書も文章を書くこともそれぞれで楽しめばいい。この仮説を思いついて、文才を追いかけるのはあきらめたほうがいいんだろうなと思った次第である。
 
ということで、文章を書く能力は読書に比例するのでなく、子どものころの読書量に比例するのではないかという仮説の話でした。