夏休みの宿題に見る、中途半端な完璧主義

娘の夏休みもそろそろ折り返し地点。たっぷり出ている宿題を見ていると、自分が子どものころを思い出す。
 
私は、夏休みの宿題は、ドリル的な4教科の宿題については問題なく、さっさと済ませていた。だいたい7月の終わりには目処が立っていたと記憶している。
一方で、絵画、自由研究、読書感想文といった、大物の宿題は取り掛かるのが遅く、いつも夏休みの終わりにお茶を濁して片付けるという感じだった。
 
これらの宿題も先にやってしまえばいいし、毎年、今年こそ早く終わらせようと考えるのだが、どうにもうまくできなかった。
今さらながらその理由を考えると2つの理由が思い浮かんだ。
 
1つは好きでも得意でもないから。
絵を描くのは小さいころから苦手で、だからこそ好きではなかった(というか、嫌いだった)。図工や美術の成績が良かった試しがない。
読書感想文も、今でもこそ本を読むのは好きだが、子どものころはそうでもなく、また読書感想文の書き方がわからず気乗りしなかった。
自由研究はそもそも何をしていいかわからなかった。研究とはなんぞや、ということを先生がおしえてくれた記憶もない。よく考えれば無責任な宿題の出し方だったと思う。
4教科のドリルは別に好きではなかったが、とりあえずできたので、先にやっていたが、得意でもないものはどうしても後回しになってしまったのだろう。
 
そして、もう1つの理由が今回の本題なのだが、私が中途半端な完璧主義だから、というもの。
できないくせに、夏休みに入るころは、今年こそは完璧なものをつくろう、なんて思ってしまうのである。きちんと準備をして、計画を立てて、納得いくものをつくろうと考えるのである。
しかし、そもそも好きではないし、だからこそ最終完成形がイメージできない。その最終イメージを考えることが最初のタスクになるのだが、まあ夏休みは長いし、1日くらい後でもいいや、となってしまう。
結局、それで1日1日が過ぎていき、8月の下旬を迎えるわけである。
ここまで来ると、納得がいくものとか、完璧なものとか、そんな目標は当然のことながらなくなり、どうにか完成させて、なんでもいいから提出するという目標に下方修正がなされる。
そこから頭もフル回転させ、辻褄をあわせて、妥協を重ねたものをどうにか完成させて提出する、というのが小中学生のときの私の夏休みだった。
 
この中途半端な完璧主義は、その後の私の生活にも影を落とすことになる。
学生時代も社会人になってからも、大物の課題があると、これは完璧に仕上げてやろうと最初は妄想するのである。比較的時間もあるので、きちんと計画と立てて、準備もしてと考えるのである。しかし、時間的余裕があるから、まあ明日でもいいやとなり、結局は〆切直前になって慌てて作業を開始して、どうにか辻褄をあわせて完成させるという流れになる。
これは今でもその傾向がある。プレゼンやスピーチの機会など、早めに準備しておけばいいのだが、どうしても直前になってからの準備になってしまう。最初はあれもこれもやりたい、言いたい、と妄想するのだが、結局は妥協の産物的な成果物になってしまう。
中途半端なものでもまず完成形までもっていって、そこからブラッシュアップするのがいい、ということはよく言われるが、これがなかなかできないのである。
 
もう40代半ばのおじさんとしては、今さら変えられないのかなとあきらめの気持ちがありつつも、やはりこれではいけないと自省する毎日である。
早く完成をさせて、余裕をもって本番に臨む、そんな人生を目指すことだけはやめないようにしたい、そう考える今日このごろである。
 
ということで、子どものころからの行動様式はなかなか変えることができない、という話でした。