本を読む楽しさを知らない人は、一生のうちにこんなにも読めない本があることに絶望しなくても済むのかもしれない

1月の東京出張では、帰りの新幹線に乗る前に丸善に寄ってきた。
丸善のような大型書店に行くといつも思うのだが、あの本も読みたいとこの本も読みたいとなり、一生のうちに読めない本がこんなにもあるんだなと、いい意味で絶望感を味わうことになる。
当然のことながら、これまで読んだ本よりも、まだ読んでいない本のほうが多いわけで、その数の多さに打ちひしがれるわけである。
 
一方で、うちの会社では、2年くらい前から課題図書として管理職に月一冊本を渡して読んでもらっているのだが、未だに毎月本を読む機会をもらえてよかったといった、感謝の言葉は一つも聞いたことがない。
本を読むのはめんどくさい、というのが本音で、本を読むことが楽しいとか人生を豊かにするという感覚には、なっていないようである。
 
私も幼いときから本を読むのが好きだったわけではなく、大学生のころまでは本を読むのがめんどくさいと思うほうの人間だった。入学時から本屋に行けば数冊まとめて買うという大学の同級生がいて、尊敬のまなざしで見たものである。
 
そんな感じだったので、私も本を読むのがめんどくさいという気持ちはわかる。
わかるのだけど、2年も月に一冊ずつ読めば、読書という体験が人生を変えるほどの機会になるかもしれないことに、少なからず気づいてほしいと思ってしまうのである。
 
私はうちの会社の社員やまわりの人には、多くの本を読んでもらって、少しでも人生が豊かになる経験をしてほしいと思っている。
しかし、それは大きなお節介であるのかもしれない、とも薄々気づいている。
課題図書を配って、半ば強制的に本を読ませるのも、せいぜい管理職までで、その以外の社員にまで強要はできない。
私ができるのは、私が面白いと思った本で、役に立ちそうな本を管理職に(半ば無理やり)読ませるくらいまでが精一杯で、あとはそれが楽しい経験と思うかどうかはその人次第と割り切らないといけないのだろう。
 
ただ、一方で、丸善のような大型書店に行くたびに、本を読む楽しさを知らない人は、一生のうちにこんなにも読めない本があることに絶望しないんだろうな、なんて思ってしまう自分もいる。
まあ、こんな感情は、すべての趣味に当てはまるわけであって、読書だけが高尚なものではないのだけど。
もしかすると、自分も前は本を読むのが好きではなかったからこそ、本を読むという経験が素晴らしく、読書をすることで人生が豊かになると、思い込んでいるのかもしれない、なんて書きながら思った次第である。
 
ということで、それでも管理職には月に一冊くらいは読み続けてもらって、そのうちに誰か読書の意義に気づいてくれるのを待ちたい、という話でした。