答えのある問題と答えのない問題が混在している問題~「自分の意見で生きていこう」を読んで(その2)

ちきりん氏著「自分の意見で生きていこう」を読んでの感想の第2回目。
 
さっそくだが、ちきりん氏は、最初に世の中のあらゆる問題には、「正解のある問題」と「正解のない問題」があり、正解がある問題は調べることが必要であることに対して、正解のない問題には考えることが必要になると区分すべし、と説いている。
このこと自体は、ほんとそのとおりで、きちんと区分して考えることで、多くの悩みは解決されるだろうと思った。
 
しかしながら一方で、この「正解のある問題」と「正解のない問題」が混在している問題も多くて、これをいっしょくたに捉えてしまうため、問題解決が進まないケースも多いなとも思った。
 
例を挙げると、私は最近メンタルヘルスに関する講習を受けたのだが、まさにこれは「正解のある問題」と「正解のない問題」が混在している問題だと感じた。
個別の事案において、最終的にどういう行動を取るのかについては「正解のない問題」であり、個々人が考えて決めないといけない。
ただ、メンタルヘルスに関する諸問題については、セオリーというか考え方の基本というか一般解は存在している。医学的な考え方、法的な考え方などから、こう考えるべしというというものが存在しているのである。
それを最初から答えがない問題として捉えて考え込んでしまうと、時間がかかるし、もしかすると誤った方向での判断を下してしまうからもしれない。
セオリーを知った上で最終的な行動は自分で考えて結論を下すのと、最初から自分の頭で考えるのでは、最終的な結論の精度も、結論が出るまでのスピードも変わってくるというわけである。
 
新型コロナについても同様で、ミクロで個人がどのような行動を取るべきか、マクロでどんな政策を選択すべきか、については各個人がいろいろな意見を表明している。
それ自体は別に悪いことではないのだが、感染症やウイルスの原理原則論を抑えていないとトンチンカンな意見になってしまう。
Twitterでつぶやくくらいなら大きな影響はないのかもしれないが、それでも著名な人が怪しい情報にもとづいて意見を言っているのを見ると、ちょっと危うい感じがしてしまう。
 
とこんな感じで、世の中の複雑の問題の多くは、「正解のある問題」と「正解のない問題」が混在している。それらはどこまでが正解のある問題で、どこからが正解のない問題であるか、切り分けてから問題に取り組まないといけないのだが、それを考えることができる人は少ないのだろうなと思ったりもした。
 
だからこそ、同書におけるちきりん氏の主張は意義があり、この本を通じて、複雑な問題であっても、まずはこの切り分けをすることからはじめるのだ、ということが問題解決の手法として定着してほしいと思った次第である。
 
ということで、難しいと思われる問題には、「正解のある問題」と「正解のない問題」が混在している、という話でした。