正解を求めようとする人たち~「自分の意見で生きていこう」を読んで(その1)

ちきりん著「自分の意見で生きていこう」を読んだ。

 

私がちきりん氏の存在を知ったのは、もう10年以上も前で、それ以来ブログや書籍からいろいろと影響を受けてきている。

 
最新の著作である「自分の意見で生きていこう」は、「自分の頭で考えよう」「マーケット感覚を身につけよう」「自分の時間を取り戻そう」に続く、4部作の完結編で、いわゆる紙の書籍としては最後の著作になるとのこと。
 
今回もこの本を読んで、いろいろと考え、いろいろと気づきを与えてもらたったので、いくつかの記事に分けてまとめておきたいと思う。
 
1回目は、正解を求めようとする人たち。
 
今回の著書では、最初に、世の中のあらゆる問題には「正解のある問題」と「正解のない問題」があると述べられている。
正解がある問題は調べることが必要であることに対して、正解のない問題には考えることが必要になる。正解のある問題には正解と誤答があり、正解のない問題には多くの意見が存在するとし、意見には正解も不正解もないとしている。
しかしながら、多くの人はあらゆる問題には正解があると思いこんでおり、これを氏は「学校的価値観」と名付けて悲観している。
 
この学校的価値観、自分の会社でも蔓延っているな、本を読みながら思い出した。
 
例えば、社内での会議において、管理職に意見を求めるのだが、ハッキリと言及したがらない、という場面に多く遭遇する。ポジションを取らずにどっちつかずに意見っぽいことを言うことが多い。状況を整理しただけでどちらがいいかあいまいなままにしておくのである。
なぜそういうことになるのか。それは社長である私が「正解」である意見をもっていて、それをうかがっているからである。社長と違う意見になると、あたかも不正解のような感じがして、それを避けているように見えるというわけである。
 
複数の人間が集まって会議をする理由は、論点を明確にして、複数の意見(選択肢)が出すことにある。その意見に対して、各々の立場での良し悪し、好き嫌いを挙げて、多角的にものごろ見ていくことにこそ意義がある。
最終的な意思決定は社長である私が行うが、それに向けていろいろな視点から意見がほしい。しかしながら、学校的価値観から、先生のような立場である社長の意見に、無意識のうちにあわせないといけないと思っているように感じることがよくあるのである。
 
なぜこうなるのか、学校的価値観が染み付いているということもあるが、考えるのが面倒くさいということも多分にあるように感じている。意見を明確にするには、この本にもあるように、違う立場からもツッコミをいれながら、自分の考えをブラッシュアップしていかなければならない。この行為が面倒くさいのである。
しかし、管理職であれば、自分の責任範囲のことについては考え抜くことが仕事であることを、認識してもらわなければいけない。
そのためにも、この本を管理職に配って読んでもらおうと思った次第である。
 
ということで、(無意識のうちに)正解のない問題で正解を求めてしまう人は多い、という話でした。