ランドセルというイノベーションが起こらない製品

うちの娘は現在幼稚園の年長で、来年から小学生になる。
小学校入学まで半年を切り、いろいろな準備が始まっている。入学前健診もあったし、入学に向けた書類なども揃え始めている。
 
そんな入学に向けた準備の中でも、とくに大きなイベントとしてランドセルの購入がある。9月ごろ妻の両親とランドセルを選びに行き、この11月にそのランドセルが届いた。
 
ランドセルと言えば小学校入学の象徴のようなもので、娘本人はもちろん喜んでいるし、われわれ夫婦やそのランドセルを買ってくれた妻の両親も、ランドセルを背負っている娘を見て喜んでいるのである。やっとこの小学生かと、感慨深い。
 
そんなランドセル、私も含めてみんなが喜んでいるところではあるが、一方でちょっと冷静になって見てみると、昔からホント変わらないことに気づく。
たしかにランドセルを背負っている娘はかわいいのだが、そのかばんの大きさは身体に不釣り合いで、今にも後ろに倒れてしまいそうである。
 
明らかに低学年には大きすぎるランドセル。
ゼロベースで考えると、ランドセルというスタイルである必要はないのではないかと思ってしまう。
体型も大きく変わっていく6年を1つのかばんで済ませることに無理があるのだと思う。
 
最近とくに低学年において問題になっているようだが、教科書も毎日持って帰るのではなく、置き勉を推奨する識者も多いらしい。
それであれば、低学年にはもう少し小さな背負えるバックで通学をさせればいい。
教科書は宿題があるものだけを持って帰る。ノートも全教科1つにまとめる。最近ではタブレットの配布なども進んでいるようなので、それに集約できるのであればさらに小さなかばんでいいはずである。
他にもいろいろ持ち物があるが、そういったものとあわせてトータルで運びやすいようなスタイルを、各学年ごと、個人ごとに決められるような感じにしていけばいいのではないかと思うわけである。
 
こんなことは多くの人が考えそうなことだと思うが、それでも旧来的なランドセルがなくなることはない。なぜだろうか。
 
それは誰もそれを望んでいないから。
 
小学生になる本人にとっては、それが小学生の象徴であり、小学生になるための証書のようなものだと思いこんでおり、自分のランドセルがほしいとなる。
親や祖父母の世代も、自分たちと同じようにランドセルを背負う子どもの姿を見たいと思っている。
先生たちも何か新しくすることによるリスクは負いたくないし、少なくともこれまで大きな問題がなかったランドセルを変えるインセンティブはない。
 
とこんな感じで、誰も望んでいないのである。ランドセルをやめて何か新しいものに変えようとか、ランドセルをやめてしまおうという議論は(あるのかもしれないが)少なくとも私は聞かない。
 
そう考えると、学校の行事や慣習はすべからくそんなものかもしれない。
旧来的な慣習にあこがれる子ども。自分がやっていたことと同じようにする子どもをみたい親や祖父母。リスクを負ってまで新しいことをしたくない先生。
この関係性から何か新しいものが生まれにくい構造になっているのかもしれない、と娘のランドセル姿を見ながら考えた次第である。
 
とはいえ、ランドセルを背負っている娘はかわいい、という話でした。