全国各地で新型コロナのワクチン接種が進んでいる。
私の住んでいる地域は比較的接種が早く進んでおり、我が家も、私が8月初旬に1回目接種済みで、9月のあたまに2回目の予定。妻もこの週末に接種予定で、9月末に2回目の予定となっている。
9月からは二学期も始まり、上の娘が幼稚園に通い出すので、早めにワクチンを接種して感染を防ぎたいと思っている。
そんな中、妻がワクチン接種直前になって、急にワクチンの不安を口にするようになった。話を聞いてみると、要は長期の副反応が心配ということだった。
その心配というか疑問に対して、私はこんな感じで回答をした。趣旨は2点。
1つは、ワクチンの特性上長期的に身体に影響が残ることはない。絶対問題がないとは言い切れないが、その確率は極めて低いと言われている。
もう1つは、ワクチンのリスクだけを見るのではなく、ワクチンのリスクとワクチンを接種しないリスクを比較すべきで、この2つを比較すると、ワクチンを接種しないリスクのほうが大きいと自分は判断する。
他にも、なんでこんなに早くワクチンが開発できたのか(いやそんなはずはない)といった疑問などいくつかあったが、私は自分が理解している範囲の科学的な知見に基づき、概ね問題はないと思っていることを説明した。
ただ、ここで最近見たとあるツイートを思い出した。
イベルメクチン推進派と慎重派の対立は、エビデンスベースとエピソードベースの分断として理解しています。日本は、政治にかぎらず、教育や報道もエピソードベース。
— 勝川 俊雄 (@katukawa) 2021年8月25日
エビデンスベース
データと統計に基づく→理論的・合理的
エピソードベース
個人の体験談に基づく→情緒的・共感的
このツイートで言われていることはごもっともで、(これは日本に限らないと思うが)各種報道などでもエビデンスベース話ではなく、エピソードベースのものがほとんどである。
これはこれで問題なのだが、一方で多くの人が求めているのは、エビデンスではなく、エピソードというのもまた真なりで、エビデンスをエピソードに変換してあげないと、多くの人には伝わらないのだろうな、ともこのツイートを見て思った。
そんなことを思いだしたので、妻への説明も上述のエビデンスベースの話に加えて、エピソードベースの話もしておくことにした。
具体的には2つの話をした。
1つは、最近うちの会社で起きた感染例について。
もう身近でも感染が起こっているということを意識してもらうためで、あわせてワクチンを接種していれば、おそらく感染は起こらなかったであろうということを話した。
もう1つは、そこから派生して、もしうちの家庭で感染が起こったらという話をした。私か妻が感染したケース、両方が感染したケース、さらには子どもが感染したケースについて。
大人であるわれわれ夫婦が感染した場合、重症化する可能性は低いと思うが、それでもどう対応するかについてはてんやわんやになるだろう。感染して入院もしくはホテル療養になった場合、どうするか。両方とも感染した場合、子どもたちはどうするか。想像しただけでも大変である。
そして子どもたちが感染した場合。重症化する可能性はわれわれよりもさらに低くまれかとは思うが、それでもゼロではない。それに発症すれば軽症でも苦しいはずである。
こういった事態も、ワクチン接種をすることで(ある程度は)回避できるということを話した。
これで完全に納得したわけではなさそうだったが、少なくとも打たないよりかは、打ったほうがいいのだろうと感じたようだった。
エビデンスベースの話では、そうは言ってもという感情が見て取れたが、エピソードベースの話を加えることで、子どもたちを守るためには致し方なしくらいには思うようになったのではないだろうか。
多くの人がエビデンスベースで議論できるかと言えば、正直そうではないと思う。適宜、今回のようにエピソードに変換することで何かを前進させることができるのであれば、活用するのも一手であると感じた次第である。
ということで、エビデンスベースの話をエピソードベースに変換することが有効な場面はけっこうあるのではないかと思った、という話でした。