赤ちゃんの鳴き声は、不快の意思表示ではなく生存確認のためだ、と思えると育児は楽になる

我が家の第二子が生まれて、早3ヶ月を迎える。
いろいろと大変ではあったが、上の子のときと比べると、絶対的に楽である。
どの家でも、第一子のときは何もわからないので大変だが、第二子のときは要領もわかって、いい意味で雑になると思うが、この雑さが育児を楽にしていると思う。
 
私の妹は4人子どもがいるが、第一子のときはてんやわんやで、(しかも小さいころから知っている妹なので)なんだかままごとでもしているような感じであったが、第二子のときはいい感じでほったらかしていて、余裕の満ち溢れた母親になったと感じたのを思い出す。
 
うちもご多分にもれず、今回はいい意味で雑だし、ほったらかしである。
上の娘とは5つ離れているので、最初は忘れていることも多くて戸惑ったが、あるタイミングからは徐々に思い出してきて、いい感じに手を抜けるようになってきた。
 
そんなものだと言えばそれまでだということになってしまうが、上の子のときと何が違うのか、もう一歩踏み込んで考えてみた。
それは、赤ん坊が泣いているときの対応であると気づいた。
 
思い出すと、上の娘のときは、泣いているということはいけないことで、それを解消しないといけないと(無意識に)思い込んでいた。
泣いたらあやす、泣いたらオムツを確認する、泣いたらおっぱいをあげる、という具合に。
泣くことが唯一のコミュニケーション手段なので、それを察知して、対処しようと躍起になっていたのである。
夜中であっても、泣いていたらすぐに起きて、だっこしていた。
食事の最中であったも、泣き出したら、自分が食べるのをやめてあやしにいっていた。
 
それに対して、現在下の息子に対しては、少々泣いていても基本放置である。
ある一定の時間内でおっぱいをあげていれば、腹が減っていたとしても大きな問題ではないし、多少うんちしてても、これまた大きな問題ではないのである。
 
とくに上の娘と下の息子差が大きいなと感じているのは、上の娘のときは抱っこなしで寝ついたことがなかったのに対して、下の息子は泣いていてもじきに寝てしまうということである。
上の娘が小さいとき、泣いていても布団に寝かせておいてみたことがあったが、そのまま寝たことがなかったのである。
でも、これは今考えると、泣き声を我慢できずに、寝る前にだっこしてしまっていただけなのだと思う。
もう少し泣き声を我慢して放っておいてたら、自然に寝たのだろうけど、必要以上にだっこしてしまったために、だっこなしでは寝ることができなくなってしまった可能性もあると思う。
 
大昔、いわゆる石器時代よりも前は、赤ん坊が泣き出すということは、自分たちの命の危険に直結していたのであろう。
赤ん坊が泣いていたら、他の動物に見つかって獲物になってしまう可能性が高かったはずだ。
だから、人間は赤ん坊の泣き声を不快に思うように進化したのだと考えられる。
でも、この現代においては、赤ん坊の泣き声は、命の危険には直結しない。
そのことがわかっていれば、たとえ不快であっても泣き声に過剰反応しないようにすればいいだけなのである。
 
ということで私は、赤ん坊の泣き声は不快の意思表示ではなく生存確認のための手段なのだ、と思うようにした。
泣いていることそれ自体は問題がない、と考えればいいのである。
 
ただし、これは夫婦が共有しておかないと大変なことになる。
どちらか一方だけがそう思っていたとしたら大きな問題になる。
大事な赤ん坊が泣いているのに何もしない、親失格のレッテルを貼られてしまう。
とくに父親の側だけがそう思って何もしなかったら、母親のイライラはMAXになるだろうから、しっかりと意思疎通する必要はあると思う。
 
ということで、上の娘のときもそういう心持ちでいることができれば、もっと育児は楽だったろうなと思った、という話でした。