スタンスを決めるー新型コロナウイルスを取り巻くこの状況を「戦時」と捉えるべきか

新型コロナウイルスも3月末から一段モードが変わったように感じる。
首相や東京都知事の外出自粛要請から世間の動きが変わった。
思えば、2月末の首相のイベント自粛要請、学校の休校要請でガラッと空気が変わったが、この3月末の要請で一段警戒感が引き上げられた感じである。
また、有名人の感染や死亡が伝えられ、よりウイルスが身近なものに感じられるようになってきた。
 
一方、このタイミングになっても、まだ過度な自粛はすべきではない、と主張する人もいる。
また、自粛を要請するなら、補償もあわせてすべきだ、という意見も多くある。
 
この意見の違いはどこから生まれてくるのだろうと、ここ数日考えていたが、とりあえずの結論が出た。
それはこの新型コロナウイルスを取り巻くこの変化を、現状(平時)の延長線上と捉えるか、戦時と捉えるかの差だと。
 
例えば、イベントの自粛要請について、これを平時の延長線上という文脈で捉えるのならば、当然、自粛と補償はセットで考えられる。
しかし、今の状況を戦時だと捉えると、四の五の言っていられてないし、イベントだけを補償するわけにはいかないとなる。
 
自粛する必要がないとか、自粛を要請するなら補償すべき、と主張している人は、現状は戦時ではなく、まだまだ平時であると認識しているのである。
一方で、意見の程度のこそあれ、ロックダウンすべきとか、人々の往来を制限すべきと主張している人は、戦時(とまで考えてなくも少なくとも緊急時)と捉えているのである。
 
ここでは、どちらの意見が正しいのか、ということを言いたいのでなく、自分はどちらのスタンスにいるのかを意識して主張したほうがいい、ということを言いたい。
そして、いったんスタンスを決めたら、そのスタンスから一貫して発言をすべきだと思う。
もちろん、途中でスタンスが変わるのは問題ない。ただ、スタンスが変わったのであれば、スタンスが変わったということを表明してから意見を言えばいい。
しかし、その時々で、あるときは補償しろ、違う場面では自粛しろ、というように、スタンスを変えながら意見するのはフェアではない。
 
この「スタンスを決める」という考え方は、三浦崇宏氏が著書「言語化力」で言及されていた。
この本を読んで、スタンスを決めるという概念が自分の中で明確になり、今後自分はどのスタンスなのかを意識していこうと思っている。
また、Twitterなどで他の人の意見を見るとき、この人はどういうスタンスから意見を発しているのかを意識するようにもなった。
言語化力 言葉にできれば人生は変わる

言語化力 言葉にできれば人生は変わる

  • 作者:三浦 崇宏
  • 発売日: 2020/01/22
  • メディア: 単行本
 

 

余談だが、このスタンスを決めて、それを表明するということを、多くの人が意識すれば、(とくにTwitter上での)不毛な議論はなくなるように思う。
はじめからスタンスが違うのだから、そこから出てくる個々の課題の結論は当然異なる。
ある一定の議論をして、そのスタンスの違いが明確になったら、そこで終わりにすればいいのである。
その過程でスタンスが変わればそれも良し、変わらないのであれば、(そのスタンスで考えれば)そういう意見もあるかもね、くらいでいいのである。
 
閑話休題。私自身がこの新型コロナウイルスの問題を取り巻く現在をどう捉えているかというと、この2020年4月現在「戦時」として捉えている(より正確な表現で言えば、平時の基準でものごとを考えてはいけない、と考えている)。
これまでは、東京や一部の都市部だけの戦争のように捉えていたが、地方にも押し寄せて来ていると考えるようにしている。
そういったスタンスで、今後はものごとを判断していきたい。
 
ということで、どういうスタンスでものごとを見るかによって、同じものを見ていても違った結論になるよね、という話でした。