国鉄民営化に見る、時代はすぐには変わらないが、少しずつ着実に変わっていくということ

国鉄が民営化され、JR各社が発足したのが1987年。それから早くも30年以上が経った。当時、私は小学生だったので、そのニュース自体はもちろん知っていたが、大きな出来事があったんだなと思ったくらいだった。民営化されたとはいえ、駅舎が変わるわけでも、電車が新しくなるわけでもなく、とくに関心をいただくこともなくそれから時間が流れた。
変化を感じたのは2000年代前半くらいだったろうか。記憶は定かではないが、当時大学を卒業し社会人のなりたてだった私は、帰省のたびに東京駅を利用していた。すると、東京駅に行くたびに改札内に新しい店ができていくのに驚いた。「駅ナカ」という言葉もこのころからできたと記憶している。そういった風景を目の当たりにして、ああ民営化というのはこういうことだったんだな、と強く感じたことを今でも覚えている。
 
似たような感覚は、冲方丁の「天地明察」や「光圀伝」を読んだときにも感じた。江戸時代も、徳川幕府ができた瞬間に出来上がったわけでなく、そこから徐々に変化していき、4代・5代将軍のころになって江戸時代らしくなってきたということが描かれている。元禄時代と言われる時期も1680年代ころだったことを考えると、転換点から人々が変化を実感できるほど変わっていくには大きな時間がかかることがわかる。
 
後から振り返って歴史として学ぶと、大きな転換点とその時代に生きる人々が感じる変化が同じタイミングであるような錯覚に陥るが、当然のことながら何か体制が変わるだけですべてが変わるわけではない。その転換点自体はたしかに大きな出来事であったのは間違いないだろうが、そのことによる変化を実感するまでには大きな時間がかかるのである。裏を返すと、変化を実感できるレベルまでもっていくのは時間がかかり大変だということである。だからといって、このような転換をしなければ変化はない。
 
会社などの組織でも、体制や人事を転換することで変化を期待するが、その変化はすぐにはやってこない。そのスパンは、国家規模の変化に比べれば当然短いのだが、それでも何か方向転換する際は、タイムラグがある。だから、何かを変えるということを先延ばしにしてしまったり、やめてしまったりするということが多々ある。
 
変化をつくらないと新しい時代はつくれない。リーダーはこのことをきちんと理解して、決断すべきときはしないといけない。そして、その決断自体はゴールではなく、変化へのスタートなのであるとも認識しないといけない。
 
東京駅は今でもいつもどこかで工事をしている。国鉄民営化というタイミングでガラッと変わったわけではないが、民営化という大きな転換がなければ今のような東京駅にはなっていないだろう。
 
なんてことを、東京駅に行くたびに迷子になりながら考えています、という話でした。