「できる」喜びと「わかる」快感

私は「わかる」瞬間が好きである。本を読んで抽象的な概念を理解できたときや、自社の事業や人事などでこうしたらうまくいくと思いついた瞬間、議論をしていて進むべき解決策を導き出せたときなど、「わかる」ことに快感を覚える。だから、本を読むのが好きだし、考えるということも好きなのだろう。
ただ、その対の概念としての「できる」ということに対して執念が足りない。わかってしまえば、あとはおまかせしたいという感じである。もちろんできたほうがいいし、できなくていいというわけではないのだが、次の「わかる」にいきたい衝動に駆られてしまうのである。
 
私の「わかる」体験は、記憶をたどってみると、中学のときの数学の授業にあると思われる。
小学校ときから勉強はできたほうだったが、それはわかるから面白いというよりは、できるから楽しいという感じだった。
その中学のときの数学の先生は、厳しかったのだけど、きちんと理屈を教えてくれ、私は好きだった。反復練習でできるようにするというよりは、原理まで遡って1つ1つおしえてくれたように記憶している。定義と定理の違いや関数とは何かなど、その考え方自体が今でも役に立つようなことも多く教えてくれた(厳しく理屈っぽかったので、理解できない生徒はとことん嫌だったらしい)。
浪人時の予備校や大学でも、自ら進んで選択したのは、「わかる」を提供してくれる授業だったように思う。
 
さて、そんな「わかる」好きな私だが、前述のとおり「できる」に対する執着に欠けていることに、最近気づいた。いや、前から薄々わかっていたのだが、意識的に気づくことができた。
余談だが、大学時代の友人に「英語をしゃべれるようになりたい」と言ったとき、「おまえは英語を話したいのではなく、英語の効率的な勉強方法を知りたいんだ」と言われたことがある。これなんてまさに私の性格というか特徴を捉えている。
 
しかし、経営者は結果を出さないといけない。それなのに私は「わかる」ところで満足していて、「できる」ところまでもっていく努力を欠いていた。
わかれば、誰かができるまでもっていってくれると思っていたところもある。
しかし、せっかくわかったことも、できるところまでもっていかないと認めてもらえないし、信頼も得られない。
また、わかったことも、きちんとおしえないと、まわりは理解してくれない。
 
最近読んだ本の「人生は、運よりも実力よりも「勘違いさせる力」で決まっている」には、成功すると次の成功確率が高まる。錯覚資産は「わかる」からではなく、「できる」からしか生まれないのである。
 
ということで、まずは自分が「できる」ことも示し、その上で自分が「わかる」ことをきちんと理解できる内容にまでして「おしえる」ことにもっと真剣に取り組まないといけないと思う今日このごろです、という話でした。 
人生は、運よりも実力よりも「勘違いさせる力」で決まっている

人生は、運よりも実力よりも「勘違いさせる力」で決まっている