新規感染者推移とワクチンの関係性

9月に入ってコロナの新規感染者数もだいぶ減少してきた。
東京などの都市部では8月上旬にはすでに減少傾向に入っていたし、私が住んでいるような地方でも8月下旬をピークに下げに転じている。
 
この感染者数の推移だが、私は当初4回目のワクチン接種が進むと考え、昨年とほぼ同じように8月ピークで9月には減少、10月にはかなり落ち着くだろうと予想していた。
しかし、医療従事者や高齢者を除いて、4回目のワクチン接種はオミクロン型のものを使用するため、10月ごろ開始というニュースが出たので、ワクチン接種が遅くなるのと夏休みの影響で、7月下旬にはいったん減少傾向となるものの、9月には再び増加傾向になるのではないかと、予想を変えた。
 
で、結果としては、変更後の予想は大きくハズレ、当初の予想に近いほうで推移している。9月に入って学校も再開したが、現状増加傾向になった地域は(全部調べたわけではないが)ない。
これはどういうことなのだろうか。
 
考えられることは、ワクチンは感染のサイクルには大きく影響しないのかもしれないということ。
だからワクチンは意味がないというわけではなく、ワクチン接種が進むことで感染の波を低く抑えることができるのだろうと考える。もし、4回目の接種が早く進んでいれば、感染者数はここまで大きく上がらなかったかもしれない。
ただ、ワクチン接種が早まったからといって(もしくは遅くなったからといって)感染の波が来る時期にはあまり大きな影響を与えないのかもしれない。そう整理をしている。
 
今後、変異型のウイルスが現れたり、それに対応するワクチンが開発されたりと、イタチごっこが続くことが予想されるが、大きくは夏と冬に大きな感染の波が来ることで、あと1~2年くらいは推移するのではないだろうか。その波を下げるために、ワクチンも年に2回くらいのペースで接種することが推奨されるのであろう。
 
直近の第6波、第7波は重症化率は下がっているものの、少なくとも新規感染者数の波は高くなっており、それなりの重症者や死者を出していた。これがある程度のところに落ち着くのであれば、それこそ収束が見えてくるかもしれない。
おそらく今年の冬に来るであろう第8波で、新規感染者数を抑えることができれば、来年あたりは今年よりもさらに安心した日々の生活が送れるかもしれない。そんなことをデータを見ながら思った次第である。
 
ということで、予想は外れたけれど、先が見えてきたかもしれないと思った、という話でした。

文才とは、子どものときの読書量に比例するのかもしれない

私はそこそこ本を読むほうだと思っている。
と言っても、現在は月5冊程度。一番多かった時期は月に10冊程度読んでいたので、まあまあの読書量だったと思うのだが、現在でも同年代の平均から比べれば多いほうだと思う。
私が本をきちんと読み出したのは社会人になってからで、そこから考えると20年程度なので、年50冊平均としても1,000冊以上の読書量にはなっているかと思う。
1,000冊と聞くと、そこそこ読んできたなと感じるのだが、一方で文章を書く能力は一向にうまくならない。
 
別に文章力を上げようと思って本を読んできたわけではないのだが、読書量が増えたからといって、文章力が上がった実感はまったくない。
こうやって毎日ブログを書いていると、とりあえず一つの記事にまとめる時間は短くなっているが、いわゆる文才(文章を巧みに書く才能)は平行線のままである。
 
よく読書量と文章力は比例とすると言われるが、あれは本当だろうか。少なくとも私の場合は当てはまらない。
そこで、私なりに考察してみた結果、おそらく文才とは子どものころの読書量に比例するのではないだろうか、という仮説に行き当たった。
 
パッと思いつく文章の上手い人を想像してみると、たしかに読書家が多いのだが、それらの人々は子どものころから本を読んでいる。
例えば、私が私淑している、楠木建先生やちきりん氏などは、子どもころからよく本を読んでいたと言っている。私が学生のころのとある友人も、文章がうまく文才あるなと思っているのだが、この友人も私に比べると子どものころの読書量が多い。
 
もし、この仮説が正しいとすると、私が今後どんな本を読もうが、それによって文章を書く能力が上がるわけではないということになる。
だとすれば、それはちょっと悲しいことだが、仕方がない。もう少し自分に文才があればなと思うことはしばしばあるが、これを上げていくのは難しいのだろう。
 
今さら子どもには戻れないので、読書も文章を書くこともそれぞれで楽しめばいい。この仮説を思いついて、文才を追いかけるのはあきらめたほうがいいんだろうなと思った次第である。
 
ということで、文章を書く能力は読書に比例するのでなく、子どものころの読書量に比例するのではないかという仮説の話でした。

新幹線乗車率定点観測-2022年9月中旬

ここ2ヶ月ほどほとんど出張に出ることがなかった。
あっても車で行ける範囲の取引先訪問くらいで、新幹線を使っての出張はなかったのだが、久しぶりに(日帰りだが)出張に出ることになった。
どうしてもコロナの感染者が増えると出張は控えることになり、会食は減ってしまう。感染するのはいいとしても(良くはないのだが)、家族含めて隔離しないといけなくなることと、その後の予定をキャンセルしなくてはいけなくなることを考えると、リスクのある行動は避ける傾向になってしまう。出張に出て、取引先や客先に訪問するだけであれば感染のリスクは限りなく低いのだが、まだまだこのあたりの認識も統一されておらず、積極的に動くのは憚られる感じは未だに残っている。
 
さて、9月に入り、新規感染者数も全国的にかなり減少してきており、第7波も収束に向かうような気配である。今のところ、2学期に入って学校が再開されたことによるリバンウンド傾向は見られないが、今後どうなるのだろうか。
 
そんな中での久しぶりの新幹線での出張だが、毎度恒例の定点観測ということで、乗車率についてメモをしておきたいと思う。
今回乗ったのは、平日午前中、山陽新幹線のさくら上りの指定席。
ざっくり乗車率は50%程度。
さくらの指定席は2列×2の座席配置だが、ほとんどの列で二人掛けの席の片方がうまっている。
多くもなく、少なくともなくという感じなのだが、雰囲気からして、コロナの感染者数で乗車率は上下しないという印象を受けた。
うまく表現できないが、コロナも前もこの時間帯はこんな感じだったなあ、という感じがした。
 
前回乗った7月は新規感染者数が急増しているときで、このときも感染者数に関係なく乗車率はかなり高かったが、すでに移動に関しては、感染者数はあまり影響しないのかもしれない。
こうやって徐々に元の生活に戻りつつあることを実感するが、一方で大人数での会合などはまだまだ感染者数の推移を見ながらという感じである。
このあたりも含めて、元に戻ってきている部分と、元に戻るのにはもう少し時間がかかりそうな部分が混在しはじめているのかななどと思いながら、新幹線からの景色を眺めた次第である。
 
ということで、移動はだいぶ元に戻りつつあるのではないか、という話でした。

出張中に仕事をしようとしても嘘になる

先日、久しぶりに日帰りで出張に出たのだが、取引先で商談してから、時間が空いていたので、どこかカフェにでも入って仕事をしようと思った。
しかしながら、出張中にたまった仕事を片づけようと思っても、たいてい捗らない。
今回もご多分に漏れず、(まったく進まなかったわけではないが)思ったようには進捗しなかった。
 
なぜ出張中の仕事は捗らないのか。ちょっと考えてみた結果、3つの理由が思い浮かんだ。
 
1つめの理由は、まとまった時間が取りにくいから。
出張中ということもあり、取引先や客先への訪問がメインとなる。空き時間はその合間ということもあり、時間はそもそも長くない。
メールの返信などであればいいのだが、何かアイデアを出したり、プレゼンの資料をつくったりという仕事は向いていない。
仮にいいアイデアが思い浮かんで前に進みだしたとして、次の予定の時間になってしまって、タイムアウトなんてこともよくある。
 
2つめの理由は、仕事ができそうな場所が思ったほどないから。
どこか適当なカフェにでも入って仕事をしようと思っても、都市部で空いているカフェは想像以上に少ない。
昼間に行くと、いわゆる昼食時でなくても、だいたい混んでいる。
パソコンも開きたいので、コンセントもあって、少し作業ができるスペースの机もほしい、なんて言ってたら、空いている席なんてまったくないのである。
探しているうちに、結局時間がなくなったりすることもよくある。
 
ただ、今回に関してはけっこうまとまった時間があったし、スタバでそこそこ広く電源もある席を確保できた。しかし、それでも仕事は捗らなかった。それには3つめの理由が関係してくる。
 
3つめの理由は、出張中は徒歩移動が多く、事前に思っている以上に疲れるから。
出張前は、元気な状態で空き時間に仕事をできると思っているのだが、実際は歩くことが多く、いつもと同じ状態では仕事ができない。
さらに、これが午後の時間帯になると、普段でも昼からはなかなか頭が回らないのに、合わせ技でどうにもならない。
出張のとき疲れる、というのはこれまで何回も経験しているのだが、喉元過ぎれば熱さを忘れるで、いつも次はどうにかなるだろうと考えてしまう。
 
そんなこんなで、たいてい出張中に何か積み残している仕事を片づけてしまおうと思っても、前には進まない。
いつもと風景や気分も変わるから捗るだろうと思って、締め切り間近の仕事を出張時に割り振ろうとするのだが、結果嘘になってしまう。
今後、コロナも落ち着いてきて、9月,10月と出張の予定があるのだが、この間の空き時間を頼らなくてもいいように、計画的に仕事を進めておきたいと思う。
 
ということで、わかっていてもなかなか改善できないことがある、という話でした。

抱っこ紐の思い出

昨日、うちの息子が2歳の誕生日を迎えたのだが、この間一番役に立った子育てグッズは何かと問われれば、迷わず抱っこ紐を挙げる。
うちで使っているのはベビービョルン製のもので、娘のときから使っているものを、息子のときも継続して使っているが、娘・息子とも大変お世話になった。
 
娘が生まれて間もなくは、夜はすぐにグズって起きるので、いつも抱っこ紐を使ってあやしていたし、夕方は妻の機嫌があまりよくないときは、いつもこの抱っこ紐を使っていっしょに散歩に出かけていた。車で出かけたときもいっしょに持っていって、出かけた先で使用していた。
息子が生まれたとき、いったんしまった抱っこ紐を取り出して、同じものを使っているが、娘のとき同様に出かけるときは欠かせない。
 
うちにはベビーカーもあるのだが、開け閉めや車に入れたりするのが面倒で、私はほぼ抱っこ紐で子どもたちを連れ回してきた。そのため、だいぶ傷んできているが、気にせず使い込んでいる。
しかし、最近息子も大きくなり、抱っこ紐もだいぶ小さく感じるようになった。
息子の足が長くなり、抱っこ紐を使って歩くと、私の足と干渉して歩きにくくなってきているのである。
思えば、息子の体重もだいぶ重くなってきており、抱っこ紐を使っての散歩もだいぶきつくなってきている。もしかすると、体重の制限もそろそろ超えるころで、抱っこ紐を使える期間もあとわずかなのかもしれない。
 
そう思うと、なぜか急にさびしく思えてきた。
写真を見返すと、娘と息子とこの抱っこ紐でだっこしているものが多く、間はあるものの7年近くこの抱っこ紐を使い続けてきたので、かなり愛着が湧いており、思い出も染み込んでいる。
息子が大きくなると、この抱っこ紐を使う機会もなくなるのかと思うとなんだか切なくなってくる。
 
子どもが成長すると、それまで使っていたものが役割を終える。それは喜ばしいことではあるが、一方でさびしさも残る。
そうやって1つずつ子どもたちは成長していくのであろうが、いっしょに育てくれた物にも感謝をしたいなと思った次第である。
 
そんなこと考えながら、そろそろ下の息子も抱っこ紐卒業だね、と小学1年生の娘に話すと、私の赤ちゃんのときまで抱っこ紐を取っておいて、と言ってくる(自分が使うのではなく、パパが抱っこしてね、と)。
娘の子どものときに使えるかどうかはわからないが、この抱っこ紐、当分の間捨てることはできないだろうと思う。
 
ということで、抱っこ紐とともに多くの思い出ができた、という話でした。

2歳を楽しむ余裕

今日、うちの息子が2歳の誕生日を迎えた。
ここ最近は早く寝てくれるようになり、寝かしつけもだいぶ楽になってきたし、歩き方もしっかりしてきて、スピードも速くなってきたように感じている。
とはいえ、好き勝手歩きまわるし、一方でまだコミュニケーションもままならないので、手がかかる時期でもある。
 
この2歳から3歳にかけての時期、まわりの人は「一番かわいい時期よね」と言われることが多い。
たしかにかわいいのには間違いないのだが、この「一番かわいい時期」は(直接毎日関わらない人から見たら)一番かわいい時期であって、当事者からするとイヤイヤ期に該当するし、一番大変な時期と言っても過言ではない。なんてことをいつも思ったりしている。
 
うちの息子は、すでにイヤイヤ期の兆候は出ており、ちょっと前までは散歩に行くと機嫌良く歩いていたのに、最近では抱っこしてくれないとイヤだと駄々をこねる。食べ物も好みが出てきて、ちょっとでも気に食わなかったり、お腹が満たされているともう食べないとなる。朝起きたら、水やお茶ではイヤだと、豆乳を要求してきたりする。
1つひとつを見れば他愛もないことなのだが、それが積み重なると、親の側の疲労やストレスも蓄積して、かわいいだけではないんですけどね、なってしまう。
 
ただ、それでも一周回って、この時期の子どもはかわいい。
動物としての造形は、乳児期に比べても、幼児期後半に比べても、圧倒的にかわいいと思う。加えて、ちょっとずつしゃべれるようになる成長実感もあって、この時期にしかないかわいさがあるのは間違いない。
 
大変だけど、一番かわいい時期。私としては、せっかくだからこの時期を楽しむ余裕をもちたいと最近思うようになった。
上の娘のときは、この時期の写真を見返すとめちゃくちゃかわいいのだが、記憶として残っているのは大変というか余裕がなかった日々である。
今思えば、かなりもったいないことで、もっとゆとりをもって成長を眺めることができなかったものかとちょっと後悔している。
そこで、下の息子のときは、2歳や3歳や楽しむ余裕をもって過ごしたい。イヤイヤ期でイライラすることも多くなりそうだが、それでもどこかでこのかわいさを楽しむ心の余裕をもちたいと思う。
 
この一番かわいい時期は、これから1年半、幼稚園に入園するあたりまでかと思う。
この時期を楽しむ余裕を自分の中に常に持ち合わせたい、そんなことを思う今日このごろである。
 
ということで、息子が2歳を迎えた、という話でした。

私だけ自由じゃないと訴える娘

娘が小学校に進学してそろそろ半年を迎える。
小学生になったからといって急に成長するわけではなく、まだまだ幼稚園気分が抜けていない。
朝起こすと、まだ寝たいというだけならまだしも、学校サボるとまで言い出すし、歩いていたらすぐに足が痛いと言い出して、車がよかったとか、抱っこしてくれと言ってくる。
 
そんなわがまま全開な娘だが、食事のときに野菜も食べるように言うと、私だけ自由じゃない、と文句を言ってきた。
弟は嫌いなものは拒否して食べなし自由があるし、パパもママも自分たちで食べるもの選ぶ自由がある、私だけ自由じゃない、というわけである。
彼女の言い分としては、食事だけでなく、宿題もしなければいけないし、テレビももっと見たいのに制限されているとのことであった。
 
この主張を聞いて、私はちょっと笑ってしまった。
小学生特有というか、わがままで憎たらしい感じとともに、なんともかわいらしく面白くも思えた。
 
何が面白いかというと、1つは物事の表面しか見えていない感じが面白い。
弟は自由だと言うが、自分もその時期を経過してきている。そのときは彼女の言うところの自由を謳歌してきたわけだ。もちろん記憶はほとんどないだろうが、それをすっ飛ばしているところがなんともかわいらしい。
親に対しても、自由の裏側にある責任の側面が見えていない。いろいろと自由に選べるということは、責任が伴うのだが、自由の側だけを見て評価しているところに子どもらしさが垣間見えた。
 
もう1つ面白いなと感じたのは、人は比較によって評価しがちということ。とくに成熟していない人ほどその傾向が強いのだが、娘には今まさにその傾向が出ているなと感じた。
とくに小さいうちは、物事を比較でしか捉えることができない。自分の中の絶対的に価値観で評価するのではなく、他者との比較で自分を捉える。
それがいけないわけではないし、小さいうちはそんなものだろうと思うのだが、一方で大人になってもそれでは困るなとも思う。
いつまでも他者との比較だけで自分を評価していると、なんとなくみんながこっちというから、という雰囲気に流されてしまい、自分の幸せを考えることができなくなってしまう。
 
5年後、彼女は6年生に、彼女の弟である息子は1年生になっているのだが、おそらく同じセリフを言うんだろうなと思う。
まだその時点でも小学生。そんな発言でも問題ないと思うのだが、願わくば少しでも比較だけではない、自分の中の相対的ではない絶対的な軸が少しでもできていればいいなとも思う。
これからの5年間、自分の中を軸をつくれるように、私としても娘をサポートしてあげないといけないんだろうなと思った次第である。
 
ということで、娘の発言に子どもらしさを感じた、という話でした。