好きだけを選べる時代の弊害

ここ最近、子どもたちを見ていて、私の幼少期と大きく違うなと思うのが、コンテンツの豊富さ。いわゆる動画コンテンツはさることながら、ゲームも充実しているし、暇な時間を潰すのは問題なくできる。

私が子どものころは、例えば祖父母の家に遊びに行くと、けっこう暇を持て余していた。いろいろと買ってもらえるのはうれしいのだが、いざ祖父母の家に行くと、見たいテレビがあればいいが、それもない時間帯がけっこう長い。暇は嫌なので、家にあるトランプで遊んだり、庭で何かし身体を動かす遊びをしたりしていた。正月などで親戚が集まるときは、花札をおしえてもらったり、テレビもそれほど見たいわけではないが紅白や箱根駅伝など、ちょっと我慢して見ていたのを思い出す。

 

これが現在、今のこどもたちの時代になると、時間の制約がないコンテンツにあふれているので、家ではもちろんのこと、おじいちゃん・おばあちゃんの家に行っても、それら見ていれば暇になることはない。

自分が(自覚的に)好きなコンテンツ、自分が興味がない・嫌いなコンテンツ、そのどちらもないコンテンツと分けたときに、私が子どものころは、自分が好きなコンテンツはもちろん触れることになるが、どちらでもないコンテンツも、ある意味ちょっと我慢して見ていた。

しかし、今の子どもたちは、どちらでもないコンテンツを我慢して見る必要はなく、自分が好きなコンテンツだけに触れておけばいい。

 

これは一見良さそうなことだが、弊害も大いにあると思う。ちょっと考えてみたところ3つ思いついた。

 

1つは自分が自覚的に興味があるもの以外の情報に触れる機会がなくなる、ということ。

自分の今好きなものだけで溢れているので、それ以外の将来興味をもつかもしれないコンテンツにわざわざ触れる必要がない。そこには今好きなものよりも、もっと好きになるかもしれないものも含まれているかもしれないのに。

例えば、私が子どものころだと、親や祖父がテレビで野球を見ているので、自分もルールを覚えて野球を楽しもうと思ったものだ。それをきっかけに野球を好きになったが、今は野球を見たくなければ他のコンテンツで時間を消費できてしまう。

こんな感じで、興味関心を抱くにはちょっと時間がかかるようなものには、とっつきにくくなっているなと感じるわけである。

 

2つめは、何かしら工夫をするという姿勢が失われる、ということ。

私も子どものころは、暇なのが嫌だったので、それを回避するため、上述したようにいろいろと工夫してきた。しかし、今は工夫をしなくても、暇が回避できるどころか、消費しきれないほどのコンテンツで溢れている。向こうから洪水のようにやってくると言っても過言ではない。

そうなると、何か自分で工夫をするという必要がまったくない。局所的に見れば、これは悪いことではなさどうだが、この自分で工夫をして問題を解決するという姿勢が育まれないのは、今後の人生において影響が出てきてしまうのではないかと危惧している。

 

3つめの弊害は、暇を我慢できなくなる、ということ。

これは子どもだけでなく、大人にも言えることかもしれないが、ちょっとした暇が我慢できなくなってしまっている。細切れで消費できるコンテンツも増えてきていて、ちょっとした暇も埋めてしまいたくなるのは、私自身も自覚している。

これが子どもになるとさらに顕著で、ちょっとでも暇な時間ができると駄々をこねるようになる。それが面倒くさいので、親としてはその暇を埋めるようにしてしまいがちなのだが、これが将来どういった影響を及ぼすのかわからない。成長に応じて少々の暇は我慢できるようにしつけないといけないのではないか、と思ったりしている。

 

そんなこんなで、便利な時代ではあるが、一方で自分の好きだけを選べることの弊害も感じている今日このごろ。

何も子どものころからニュース番組ばかり見ろという気はないのだが、もう少し幅広くいろいろな情報に触れてほしいなと思う次第である。

 

ということで、子どもたちには、自分が今好きなこと以外にも広く興味関心をもってほしい、という話でした。