学校の先生になりたかった話

先週末、娘の小学校の参観日があって、参加してきた。土曜日の参観日ということで、2時間続けての参観。
国語と図工の授業で、図工のほうは親もいっしょになって工作を手伝うという内容。
国語のほうは、修飾語に関する内容で、主語、述語という文の骨格に対して、より詳しく説明するための修飾語を理解しようという内容だった。こういった文法は知らなくても、文章は読めるようになるかもしれないが、きちんと理解できると、文章の構造も見えてくるようになる。英語でも文法なんて知らなくていい、という論調も見られるが、やはりこういうのはわかっていたほうがいいなと思ったりした。
 
それはさておき。今年の娘の担任の先生は授業がうまく、わかりやすい。授業参観はなるべく行くようにしているが、私自身授業の内容を楽しみにしているところがあって、今回の授業もその期待に応えてくれるような内容だった。
 
そんな娘のクラスの授業を見ていて、昔学校の先生になりたいと思っていたことを思い出した。小学校や中学校のころ、自分だったら、こういう視点から説明するだろうな、なんてことを思いながら授業を受けていた。
自分が知っていること、わかったこと、それを人におしえたいそういう欲求があり、それを叶えるには学校の先生はうってつけだと思ったわけである。
 
その後、先生の先生はただおしえるだけでは済ます、その他の仕事が大変そうというか、もう少し正直に言えば面倒くさそうに見えてきて、学校の先生を目指すことはなくなったわけだが、自分が知っていること、わかったこと、それを人におしえたいそういう欲求は変わらずに持っている。
ちょうど今、うちの会社では翌期の計画を立てる会議を定期的にやっているのだが、その中で自分なりの環境分析をしたり、方策の選択肢を整理して、それをうちの会社の幹部にできるだけわかりやすく説明しようとしたり、またそれを理解してもらうために、グループで議論してもらって、発表してもらう、なんてことをしている。
ちょっと俯瞰してみると、こういった会議は学校の授業に似ていて、そう考えると、子どものころにやりたいと思っていたを仕事をできているかもしれないなあ、と娘の学校の授業を見ながら思ったりした次第である。
 
ということで、娘の授業参観で、学校の先生になりたかったことを思い出した、という話でした。