有り難いとは、当たり前ではないということ

昨日のこのブログの記事で、1日子どもを預かってもらって自分に自由な時間ができると、ブログを書いたり、ランニングしたり、サウナに行ったりしているということを書いた。
週末は小学2年生の娘と2歳半の息子を連れて出かけるようにしているのだが、たまに両親や義両親に子どもたちを見てもらえると、私の自由な時間ができるという話であった。
 
こうやって、両親や義両親など家族に助けを借りながら子育てをしているのだが、このときに私が気をつけていることが、常に「有り難い」という気持ちをもつこと。
 
有り難いは、ありがとうの語源なので、感謝の意を表すことのように思われるが、それだとちょっとニュアンスが違うように感じている。
それよりも対義語から考えたほうがイメージしやすい。有り難いの対義語は「当たり前」で、有り難いとは当たり前ではない、と考えたほうがしっくりくる。
 
昔、「もう少し有り難いと思え」といった感じのことを言ったら、「感謝しろってこと?」と反論されたことがあるが、そうではないのである。
感謝することももちろん大事なのだが、それよりも先に当たり前のこととは思わない、これが大事なのである。当たり前ではないから、感謝につながるという流れが大事なのである。
 
話を戻して、両親や義両親が子どもたちの面倒を見てくれることに対して、有り難いと思う(=当たり前とは思わない)ようにしている。
私が勘違いをして、これが当たり前のことだと思ってくると、例えば子どもたちを見てほしいとお願いして、予定があわなかったときに、不満に思ったりするだろう。
こうなると危険で、逆の立場で考えるとすぐにわかるが、当たり前ではないことを、当たり前だと思って頼まれると、気持ちよく助けることができなくなってくるし、お互いの関係も崩れしまう可能性が高くなってしまう。
だから、親しき仲にも礼儀ありではないが、有り難い(=当たり前ではない)を忘れないようにするのが非常に大事だと感じている。
 
また、その当たり前でないことに対して感謝を示すために、どこかに出かけたときにはお土産などを欠かさないようにしているが、対価のようなものをあげているのだから、それで相殺されるように考え出すのも危険だと思っている。
あくまでも、有り難い(=当たり前ではない)が基本にあって、その上にプラスで感謝(お土産など)が乗っかるようなイメージを忘れないよう心がけている。
 
そんなこんなで、先日もそんな当たり前ではないを噛み締めながら、1日の自由な時間を楽しんできたというわけである。
 
ということで、有り難い(=当たり前ではない)という気持ちを忘れてはいけない、という話でした。