さまざまな問いに対する解を言語化する~「自分を探すな 世界を見よう」を読んで

昨日のこのブログの記事で、田端信太郎氏の「自分を探すな 世界を見よう」を読んで、田端氏の子育て論で共感した点について書いた。
今回は子育て論に限らず、田端氏の思考法というか考え方のスタンスに関して、感じたことをまとめてみたいと思う。
 
まず、これはこの本に限らないのだが、田端氏はあらゆる分野で、さまざまな問いに対する考えを、言語化して自分の中の基準や軸を構築している。
 
例えば、子育ての成功・失敗について、本書で以下のように言及している。
私には、何を以てすれば子育てが成功したかと言えるかは分からないが、失敗のラインだけは明確に引いてある。それは「自立できない」ことだ。
 
子育てに「意味」はないと、子育てに意味を求めても仕方ないといった趣旨のことを言及しているのだが、その一方で最低限ここまでは親の責任だという基準を定めている。
 
また、大学には行く価値があるのか?という問いに対して、田端氏は大学の価値を以下のように表現している。
大学に行くということは、「自分はこの道で生きていく」という決断を先送りする猶予を得ることにもなる。
 
とかく学歴には意味がない、くらいで片付けられがちだが、もう一歩深く思考することで、このような大学の価値を言語化できている。
4年間という時間をどう意味づけするのか、ただ漫然と時間を過ごすのではなく、決断の先送りの猶予期間と位置づけることができれば、より有意義な時間の使い方もできるであろう。
 
このように、とかく浅い議論で片付けられがちな問いに対して、その本質にたどりつくまで思考し、言語化するということで、その後具体的な事象で判断が必要なときに、指針を得ることができる。
 
もう1つ気づいたこととして挙げたいのが、正解のある問題と正解のない問題を明確に区別している点。
本書の冒頭、「はじめに」にこうある。
人生に正解にないように、子育てにも正解はない。
 
この正解のある問題と正解のない問題については、ちきりん氏の著書「自分の意見で生きていこう」で言及されているが、いわゆる「できる人」は正解のある問題と正解のない問題の切り分けがきちんとできているということを再確認した。
正解のない問題については思考することが大事で、上述したとおり、その正解のない問題に対して深く思考している。
 
加えて、自分がコントロールできることと、できないことを区別して、コントロールできることに集中するというスタンスも明快。
こういった問題の切り分けが明確だからこそ、より早く本質的な解にたどりついているのだろうと感じた次第である。
 
田端氏に限らず、書籍やウェブの記事などを通じて私が尊敬する人は、皆示唆に富んだ本質的な発信をしているが、それをするために上述したような思考法が確立されており、また逐次言語化することを習慣化しているものと思われる。
しかしながら、この思考と言語化は、大変な作業。とくに私の場合は、言語化をさぼりがちなので、この1つずつ言語化するという姿勢を持ち続けるよう心がけたいと思う。
 
ということで、言語化の習慣化は大変である、という話でした。

 

 

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