安倍元総理の銃撃事件に想う

昨日、昼に外出先から帰ってくると、安倍元総理が銃撃されたと聞いた。まさかと思いネットで確認すると、やはり間違いない。
その後、夕方に亡くなられたというニュースに接し、何とも言えない虚無感と脱力感に苛まれた。
地元選出の議員でかつ総理大臣にまでなられた方。普段はとくに意識することはなかったが、何か特別なものを感じていたのだということに気づいた。
 
2007年の第1次安倍内閣のとき、私は大学院の1年生で、地元出身の総理として活躍を期待したい、なんてことを何かの授業で発言をしたのを思い出す。
このときは短命内閣に終わってしまい、非常に残念だったの覚えているが、その後2012年に返り咲き、2020年までその職にあったことは記憶に新しい。
経済政策に関しては賛否あるだろうが、外交に関しては非常に大きな功績があったと感じている。
 
さて、今回の事件、民主主義国家で(あろうがなかろうが)このようなことが起きてはいけない。そして、一義的には容疑者が悪い。これは動かしようがない。
ただ、一方で安倍氏へのネットにおける罵詈雑言やヘイトの蓄積が今回の事件を誘発したという論がある。これについては、それこそ賛否がネット上で議論されているが、私のこの論に与する。
もちろん因果関係の証明はどこまでいってもできないだろうが、少なくともここ10年の一連のバッシングがなければ(そしてSNSがここまで普及していなければ)、今回の事件が起こった蓋然性は低かったと思うからである。
 
また、これとは別に、今回の事件のきっかけに言論封殺が起きてはいけないという論を展開する人がいるが、批判と罵詈雑言は分けて考えないといけないだろう。
どう線引きするかは人によって判断が分かれるだろうが、罵詈雑言がダメなのは、それこそ今回の事件に関係ない。
 
以前、原因かどうかと、それが良いことか悪いことかは、別のことであるという記事を書いたが、今回のケースは因果関係があるし、その原因をつくった(罵詈雑言をネット上に書いたり拡散させた)人は悪い、と私は考える。
 

chikaran.hatenablog.com

と、できるだけ心を落ち着けて、考えたことを書いてはみたが、やはりなんとも気持ちの整理がつかない。

起きてはいけないことが起こったということに対する戸惑いと、この事件をきっかけに日本という国が大きな分岐点にいるような感じとが相まっているからだと思う。
今回の事件の影響が今後どう広がっていくのかわからないが、今は故人のご冥福をお祈りしたいと思う。