マラソンという苦行になぜ進んで参加してしまうのか

この週末、2年ぶりにフルマラソンの大会に参加してきた。
 
私はこれまで5回ほどフルマラソンに参加しており、とりあえずすべて完走しているのだが、そのどれもが「完走」といえる代物ではなく「完歩」と言ったほうがいい内容であった。
毎回、制限時間ギリギリでのゴールで、6時間前後の時間をかけてどうにか帰ってくるという感じである。
だいたい半分くらいで膝が痛くなり、そこから先は走れなくなるというが通例で、今回で最後にしようと毎回思うのも恒例になっていた。
 
さて、今回で6回目のフルマラソン
今年は年初から毎月約100km程度の走り込みをしてきたこともあり、密かに少しは速く走れるのではないかと期待していた。
さすがにこれまでとは違うのではないかと思いながら、練習を続けてきた。
 
しかし、9月に行った20km走でそんなかすかな期待も飛び散った。
10kmあたりから股関節まわりが痛くなり、15km走れなくなりリタイア。20km走とは書いたが、15kmしか走れなかったのである。
それからは、大きな声では言えないが、コロナを理由に中止になってくれればいいのに、なんて思いながら当日を迎えた。
 
結果としては、大会は無事に開催され、私はまったく進歩なく、今回も制限時間の6時間ギリギリでのゴールとなった。
前回までと違った点があるとするならば、膝はほとんど痛くならなかったくらいで、股関節まわりにはじまり、ふくらはぎや足の裏まで痛くなり、やはり半分くらいで走れなくなってしまった。
今回は前半ある程度快調に走っていたので、その貯金で後半を歩き切り、貯金を使い果たしてゴールと相成った。
前回まで同様、フルマラソンは今回で最後にしよう、そう固く誓って帰路についたのであった。
 
痛い箇所の違いはあったものの、それでもやはり後半の走りというか歩きは苦行そのもので、3時間以上の時間を痛みに耐えながらひたすら前進した。
できればそこに座り込んでしまいたいと何度も思いながら、自分は何をしているんだろうとひたすら歩いてきた。
 
なぜ、私はこんな苦行に自ら進んで参加しているのか。
そして、私のまわりを走っていた(歩いていた)人たちも同じような感じで、なんでこの人たちも自ら進んで参加しているのだろうか。
 
せっかく練習したのだから、大会に出て試してみたいと思うのかもしれない。今回の私がそうだ。年初からけっこう走ってきたので、今度こそはこれまでとは違うと思ったのかもしれない。
だとしても、前回固く誓った、もうフルマラソンは走らないという決意は、あまりにも軽く流されている。現在から遠い過去の決意は、あまりにも簡単に上書きされてしまうのである。
 
私のフルマラソンは今回で最後になるのか、それともまた懲りずに参加してしまうのか。
今はまだわからないが、仮に今度エントリーを考えたときは、せめて20kmがきちんと走れるかどうか確認してからにしたい。これだけは忘れないようにここに書き記しておきたいと思う。
 
ということで、懲りずにフルマラソンを走って(歩いて)来ました、という話でした。