大きな書店に行くと、いい意味での絶望感を味わうことができる

先日Twitterのタイムラインを眺めていたら、こんなツイートが流れてきた。
 

 

人ひとりが、一生に得られる知識なんてものは、ほんのわずかなものに過ぎない、という趣旨かと思うが、このツイートを見て同じような感覚になったのを思い出した。
それは、大きな書店に行ったときに、ここにある本につめこまれた情報や知識の一部も得られないまま、一生を終えてしまうんだろうなという感覚。
 
私は大きな書店に行くのが好きで、東京にいたときには時間を見つけて行っていた。
地元に戻ってからは、あまり大きな書店がないのだが不満なのだが、それでも近くの本屋でブラブラすることも多いし、出張などで都市部に行ったときには、大きな書店に寄るようにしている。
とくに東京の丸の内と日本橋丸善が好きで、東京にいたときだけでなく、現在でも時間があるときには寄るようにしている。
 
丸善の入口に立つと、ここから向こうには膨大な情報や知識が並んでいるのだ、と胸が高鳴る。おそらく、多くの人がディズニーランドに入場するときと同じような感覚ではないだろうかと勝手に思っている(私はディズニーランドではテンションは上がらないが)。
 
で、いつも帰るときに、今日もこの中のほんのちょっとの本にしか触れることができなったかと思う。そして、ここにある本のうち、自分が興味あるものだけでも全部読むにはどのくらい時間がかかるのだろうかと考えて、その時間の長さに、そして自分がもっている時間の短さに絶望してしまうのである。
 
しかし、この絶望感は決して悪いものではない。まだまだ知識を得る余地、勉強できる可能性があることを意味している。
そのことを実感できるだけでも、大きな書店に行く意味はあるのではないかとすら思っている。あれも知りたい、こんなことも勉強したいと、自分の興味や好奇心を思い出すために書店に行くのである。
 
この10月、11月はコロナの状況も比較的落ち着いていて、移動もしやすい時期かと思うので、必要な出張もこのタイミングで行こうかと思っているが、それにあわせて大きな書店に行く時間も確保したいと思った次第である。
 
ということで、定期的に書店に時間をつくらないといけないなと思った、という話でした。