公文は得意を伸ばすための学習機関

うちの娘(5歳)が3歳のときから公文に通わせている。
 
私自身も同じくらいの年から公文(算数・数学)に通ってきた経験があり、幼少期から住んでいた家を引っ越す中学2年の終わりまで通っていた。
私は常に3学年くらい先まで進んでおり、おかげで算数・数学は得意科目で好きで、公文の貯金で子どものころの勉強は乗り切ったといったと過言ではない。
 
私がそんな感じだったので、2年前の5月に無料体験に連れていき、本人もやりたいというので算数をやることにした。
 
それから2年とちょっと。
正直なところ進みは大変遅い。二桁の数字を読むところをいったりきたりで、数字もきちんと書けるかあやしい。幼稚園の年長でどのくらいが標準なのかはわからないが、おそらく遅いほうなのではないだろうか。
自分と比較してはいけないと思うのだが、自分のときはもうばんばん計算をしていた記憶がある。
 
進みが遅いことは特段気にしていない。数字なんてどこかのタイミングで読めるようになるし、書けるようになる。
一方で、小学生になったときに授業が理解できないようになるとかわいそうだな、という気持ちはある。そんな気持ちもあり、少しでもアドバンテージをもって進学してほしいなということから公文に通わせていた。
 
しかし一向に娘の理解を進まない。宿題もやりたがらない。やりはじめても集中力がもたない。これだったら、小学校に上がってから、直接勉強を見てあげるということでいいのではないかと思い始めていた。
もともと公文は教室で手取り足取りおしえるような場所ではないことはわかっていたが、どちらにしろそこを親がフォローするのであれば、公文に通う必要はないのではないかと考え始めたわけである。
 
よくよく考えると、公文というのは苦手を補うようなところではないのである。得意な子どもがどんどん先に進んでいくための学習機関なのである。
私自身は自分が得意だったこともあり、そのこと意識をしたことがなかったし、親になって子どもに行かせるようなってからも最近まで気づくことはなかったが、ここにきて自分の記憶と娘の行動の観察からこういう結論(仮説)に至った。
 
もちろん娘も算数が(今のところ)苦手というだけで、他の科目や別の分野含めてどこで自分の才能を伸ばせるかはわからない。
娘も前から英語をやりたいと言っていたので、このタイミングで公文は算数から英語に切り替えてみることにした。
本人が楽しんで取り組んで、結果得意になるということであればいいと思うし、そうでなければまた別のアプローチを考えてみたい。
 
ということで、公文は苦手を克服するのではなく得意を伸ばす場所である、という仮説の紹介でした。