思考のスイッチを切って、感覚の世界に入る

オリンピック開会式の余波はいろいろなところにあらわれていて、テレビ東京系列で放送中のドラマ「サ道2021」も、小山田圭吾氏が担当していた主題歌が差し替えとなった。
私はこのドラマを毎回見逃し配信サービスのTVerで楽しんでいるのだが、ちょうど差し替えになった際に見ることができた第2話の回は、この騒動の機に見ることができなくなっていた。
このサ道の主題歌を小山田圭吾氏が担当していたことを知っていて、ちょっと考えればこういったことになる可能性があったことはわかったはずなのに、この回をまだ見ていなかった私は、もっと早く見ておけばよかったとひどく後悔をしたのだったが、後の祭りであった。
 
しかし、それから約1週間後、第4話が放送されTVerでも見ることができるようになったタイミングで、途中で配信がストップしていたこの第2話も見ることができるようになっていた。
おそらく上述の騒動で見逃し配信が途中で終わってしまったことへの特例措置として、再配信されたのであろう。
私はほっと胸を撫で下ろし、再配信の決定に感謝しながら、さっそくこの2話を見ることにした。
 
さて、この第2話だが、非常に示唆に富むセリフがあったので紹介しておきたい。
 
仕事でトラブル続きの原田泰造扮する主人公ナカタアツロウが、サウナに入ることでもやもやが消えていたと話す。そして、どうしてサウナに入ると雑念が消えるのか、という問いを発する。
それに対して磯村勇斗扮するイケメン蒸し男君は、「サウナに入ると雑念が消えるのは、思考から感覚の世界に切り替わるから」と答える。そして、「余計なことを考えることが消え、今この瞬間に気持ちがフォーカスされる」と続けるのである。
 
私はただただぼーっとすると時間をつくりたくてサウナに行く。余計なことを考えずにぼーっとできるのがありがたい。
ただ、私はそのことを、ただ「ぼーっとできる」とできると表現していたのだが、このドラマ「サ道」では、そこをもう一段言語化して、思考と感覚という言葉で表現しており、私は深く頷いた。
さらには、こういった言語化を自分でできなかったことに悔しさも覚えた。「ぼーっとできる」という表現で思考を止めていた自分を悔いるほど、この思考と感覚という対比は私の中に印象深く刻みこまれた。
 
先日、私が日頃からお世話になっている経営者の方が、サウナで外気浴している最中に話かけられてととのうことができなかったと話していたが、それはまさに思考の世界に引き戻されたからだろう。
 
この思考と感覚という対比で考えると、私は普段思考の世界にどっぷり浸かっていることを思い知らさせる。
思考とは、意識して考えるということだけでなく、無意識のうちに頭の中でまわりだして、そうしようと思っていなくなても勝手に考えてしまうということもある。だからこそ、そこから意識的に離れることが求められていたのである。
おそらく、座禅をするということも同じ効用があるのだと思うし、私の場合はキャンプに行って焚き火をぼーっと見ることも同じ効果が得られると感じている。
 
そう考えると、もっと積極的に考えることから離れるということを意識していかないといけないのかもしれない。
今回このドラマを見て、仕事や日々生活をする上で思考を止める必要を感じたら、もっと積極的にサウナを活用しようと思った次第である。
 
ということで、TVerで再配信となって見ることができてよかった、という話でした。