オリンピックに見る、決めないことの代償

今月末に迫った東京オリンピック、観客を入れるか入れないのか、まだ決まっていないようだ。
個人的には、オリンピックの開催も、観客を入れるかどうかも、どちらでもいいと思うのだが、それでもどうするのかは早く決めたほうがいいと思っている。
決めないことによって、日々その代償が大きくなると考えるからである。
 
観客を入れるか入れないかを決めないことで想定される代償は、こんな感じだろうか。
まず、観客を入れるとなった場合、当初の抽選からさらに観客を間引くことになるだろう。それに伴って、観戦の権利がある人にチケットが送られてこないとか、権利がない人(最初の抽選では当選したが、再抽選で落選した人)が来場するとかで混乱することが予想される。
また、無観客と決まった時点で、宿泊施設や飛行機・新幹線などの交通機関もキャンセルが相次ぐ。早く決まっていればリカバリーできることもあったかもしれないが、遅くなる分だけ、対応が遅れてしまう。
あと、現場のオペレーションも、観客ありなしの両方でシミュレーションしなければならず、準備がおろそかになる。観客なしになった場合、ボランティアの必要人数が少なくなり、その連絡等で混乱するといったことも予想される。
などなど、決断が遅くなればなるほど、その代償は大きくなる。
 
他にも、決めないことの代償が出てきている。ボランティアへのワクチン接種も、その顕著な例の一つであろう。
先日、ボランティアへのワクチン接種が決まったというニュースが流れていたが、抗体ができて感染の抑制効果が表れるのはオリンピックが終わってから、という笑うに笑えない事態になっている。
これも、開催するかしないかの意思決定を先送りした結果である。この遅れによって、ワクチンが間に合わなかったことによる感染は少なからず出てくるのではないだろうか。
それでも、パラリンピックには間に合うので、ボランティアの方への接種は早く実施してほしいところである。
 
と、こんな感じで、決めないこと・決めなかったことによる代償がこれから顕在化してくるだろう。
7月に入った段階でまだこんな状況なので、今回のオリンピックがどうなるのか、心配というか怖いもの見たさというか、そんな心境になってきている。
とはいえ、こんな機会はなかなかないだろうから、ここは傍観者として、今回のオリンピックで決めなかったことの代償がどう表れるのか、よくよく観察しておきたいと思う。
 
ということで、今回のオリンピックはその顛末まで含めて楽しみたいと思った、という話でした。