大河ドラマに見る、テレビという受け身の媒体

ここ最近、テレビという機械で、テレビ番組を見るということがほんとに減ってきている。娘(5歳)にチャンネル権(死語?)があるので、もっぱらYouTubeを見ている。
 
そんな中でも、いくつか見たいテレビ番組があって、娘と交渉しながら見ているのだが、それ以外にもHDDレコーダーに録画してみることもたまにある。大河ドラマがその典型で、日曜夜8時という時間帯に確実に見ることができないので、録画して見るようにしている。
 
しかし、録画しても見る機会がない。
娘が起きているときはなかなかテレビを譲ってくれないし、寝た後であっても、息子(8ヶ月)がリビングの隣で寝ているので、音量を上げて見ることができない。ドラマは基本セリフがきちんと聞こえないと面白くないので、夜にコッソリ見ることができないのである。
実際、去年の大河ドラマ麒麟が来る」は、コロナで中断再開後の分がたまったままだし、今年の「青天を衝け」については1話から録画はしているがまったく手がついていない状況である。
 
そんな状況でかつHDDレコーダーの空きもなくなってきたので、今年の「青天を衝け」は諦めて(まだ見始めてもいないけど)脱落しようかと思っていたのだが、先週末娘が妻の実家に泊まりに出かけて昼間いないというシチュエーションになったので、これは好機と撮り溜めていたのを最初から見ることにした。
 
結果、第6話くらいまでまとめて見たのだが、感じたことが2つあった。
 
1つは、大河ドラマはハマるまで時間がかかるということ。
これは毎年のことではあるが、ある程度まで進まないと次回が楽しみというところまでこない。
大河ドラマは1年という長い放映期間であるので、一般的に幼少期含めて丁寧に描かれるが、ややもすると盛り上がるまで時間がかかる。
今回見た6話くらいまででは、まだそういった盛り上がりのある場面にまでは進んでおらず、もう少し見てみる必要があるんだろうな、と感じた。
 
もう1つは、大河ドラマというフォーマットは、少々見逃してもついていける展開になっていないといけないということ。
どういうことかというと、大河ドラマ1年間という長いドラマであることから、途中でわからなくなると脱落する可能性が高くなる。
大河ドラマを見る層は、比較的集中して視聴する人が多いように思うが、それでも45分ずっと集中しておくのは難しい。
最近では加えてスマホもあるので、ながら観をする人も多いだろう。
私もこのとき、息子をあやしながら見ていたのだが、途中ちょっと見逃すと話が次に進んでしまっているということが多々あった。
それでも話についていけるのは、前提となる登場人物や時代背景の知識があるからである。逆に、そういった前提知識がなかったとすると、ちょっと見逃しただけでも話についていけなくなる。
なので、戦国時代とか幕末とか、比較的前提知識がある時代が好まれるんだろうなと改めて思った。
つくづく、テレビというのは受け身の媒体なのである。
 
そう考えると、一昨年2019年の「いだてん」は、そういった現代の視聴者と相性が悪かった。
ただでさえ、時代背景や登場人物になじみがないのに加えて、明治時代と戦後を行き来する展開。ナレーションの役割も若かりし志ん生と、現代(戦後)の落語の二重の構成。よほど集中してみないとついていけない内容だったのは間違いない。
しっかり見れば面白い内容だったと思うが、一方で脱落した人が多かったというのも納得である。
 
対して、今回の「青天を衝け」は、前半戦(少なくとも私が見た6話くらい)は、渋沢栄一の幼少期から青年期と、徳川幕府の内実という2つの要素から構成されており、前者は主人公を中心と家族の物語でわかりやすく、また後者については多くの視聴者が前提知識をもっており、比較的ついていきやすい内容になっている。
まったく見ずに脱落しようかなと思っていたのだが、せっかく6話まで見ることができたので、もう少しだけ見続けてみようかなと思った次第である。
 
ということで、内容もさることながらわかりやすさが求められる時代なんだなと再認識した、という話でした。