そんなこと書いてもいないのに、よく拡大解釈できるなと思って見ているのだが、おそらく入試の現代文とかで、書いてもいないことを勝手に斟酌して、誤答してしまうタイプなのだろう。
なんてことを思っていたら、身近でもそういう場面に出くわした。
うちの5歳半の娘である。
私が息子(8ヶ月)に対して「かわいいね」と言うと、娘は「私はかわいくないのね」と言い出すのである。
いや、今は息子に対して言ったのであって、娘については言及していない。厳密に言えば、かわいいともかわいくないとも言っていない(もちろん、かわいいのだけど)。
しかし、彼女の中では、息子に対してのかわいいは、イコール自分はかわいくない、になってしまうのである。
A(息子)ならばB(かわいい)と言っているのに対して、Aでない(ここでは娘のこと)ならばBではない(かわいくない)となってしまうのだ。
本来、AならばBという命題に対して、AではないならBでないは裏命題にあたるわけだが、元の命題で真であったも、裏命題は必ずしも真ではない。
ついでに言うと、BならばAは逆命題で、これも必ずしも真にはならない。
さらに、BでないならAでないは対偶命題で、元の命題が真であればこれは真になる。
そんな中学や高校でやる論理の話はいいとして、このように言ってもいない、書いてもいないのに、勝手に解釈してしまうのは、おそらく本能的な認知の型であって、長い進化の中で埋め込まれたものなのだろうと、娘の言動を見ていて感じた。
では、なぜ言ってもいないことを勝手に解釈するのか。考えられる仮説は2つ。
1つは、そのほうが生存確率も高かったという仮説。
こっちの山には獲物がいる、という情報があった場合、あっちの山には獲物がいない、と解釈したほうが生存確率が上がったという考え方。
こっちの山も、あっちの山も両方獲物を獲りに行くよりも、あっちの山は捨てたほうが資源を集中化でき、より獲物を獲得できた結果、現代に至ったのではないだろうか。
もう1つは、論理的に考える必要があったのは一部の人だけで、その他大勢は結果だけ知っておけばよかったという仮説。
こっちの山には獲物がいる、という情報から、あっちの山に獲物がいるかどうかはわからないが、それは一部のリーダーだけが考えればいいことであって、その他人々はあっちの山にいないと思っていたほうが都合がよかったという考え方。
おそらく、この両方の合わせ技のような気がするが、どちらにしろそういったことが繰り返されて、現代人の脳に埋め込まれているような気がする。
ただ、娘に対してはこのままではいけないので、言ってもないこと、書いてもないことを勝手に解釈しないように教育していかなければならないと、強く思った次第である。
ということで、どうやって娘に教育していこうか、まだその方法を見いだせていない、という話でした。