「映画えんとつ町のプペル」の感想を以前書いた。
悪い映画とは思わなかったが、一方で感動するような映画でもなかった。
主人公の動機が弱く、感情移入ができなかったからだ。
いろいろなエッセンスを詰め込みすぎていて、しっかりと物語をつくりこむところと、端折るところのバランスが悪いように感じた。
で、たまたま西野氏のVoicyを聞いていたら、映画えんとつ町のプペルの感想に対する反論をしていた(リンクはVoicyを書き起こしたブログ)。
まず、この映画に対して多くある意見として、以下のものを挙げていた。
面白かったのは、「主人公のルビッチが星を見る為の行動の動機が弱い」という意見です。
これは私が抱いた感想とまったく同じで、まあみんなそう思うだろうな、という類の意見である。
それに対する西野氏の反論。
「企画立ち上げの時の覚悟と、行動の規模というのは、比例関係にある」という考え方ですね。その言い分って超分かるんけど……僕は、それを幻想だと思っています。(中略)立ち上げの段階で、圧倒的な動機があって、今、大きな活躍をしている人って、僕はあまりお見かけしたことがないんですね。
この西野氏の反論だが、内容自体はそのとおりだと思う。
スタンフォード大学のジョン・D・クランボルツという教授が提唱した「プランド・ハップンスタンス」理論でも説明されるように、成功するキャリアは事前に完璧に計画されたものではなく、キャリアの多くをしめるものは偶然の出来事によって形成されている。
西野氏の言うとおり、はじめからすべて計画して事業を成功させている人なんていないと思うし、この点については私も同意する。
しかしである。動機が弱いという意見に対する反論としては、的はずれだと思う。
ルビッチの動機が弱いという意見の人は、別に「企画立ち上げ時」の覚悟のことを言っているわけではない(少なくとも私は)。
最初はささいなきっかけでいいと思う。
ただ、最終的に事を起こすに至るまでの動機変遷のストーリーがないので違和感がある、ということなのである。
動機変遷のストーリーがないという感想を、企画立ち上げ時の覚悟の行動の規模を関係性に話をすり替えているなと感じた。
この「映画えんとつ町のプペル」は、西野氏の半生を重ね合わせてつくられていると、西野氏本人も話している。
私は、彼の著作やオンラインサロンでの記事をチェックしているので、背景やそのときどう思ったか、どう対応してきたかはある程度理解しているつもりで、西野氏自身の物語には共感できる部分が多い。
ただ、それは西野氏本人の動機の変遷であって、この映画での主人公の動機変遷のストーリーとは関係がない。
西野氏の動機の変遷は理解している私のような人間から見ると、この映画はダイジェスト版を見せられているような感覚になる。
映画という限られた時間に、自身の半生のエッセンスをあれもこれも詰め込みすぎようとして、肝心の動機変遷が描かれなかったということになってしまったように感じる。
では、なぜ西野氏は動機変遷のストーリーを丁寧に描かなかったのか?
当初はなにか意図があるのかと思っていたのだが、今回のVoicyを聞いて、もともとそこに違和感がなかったのだと思った。
自分の半生を重ね合わせて映画をつくっているのだが、動機が変遷していった自身の長い物語は前提になってしまっていて、そこを描く必要性を感じなかったのではないだろうか。
そう考えると、この作品、西野氏はプロデューサーに徹して、もっと客観的に西野氏の半生を眺めることができる人に脚本をまかせたほうがよかったのかなと思わなくもない。
それだと西野作品とは呼びにくくなってしまうので、興行的にはどう影響するかわからないが。
ということで、西野亮廣という人でも、自分を客観視したり、相対化するのは難しいんだな、と思ったという話でした。