「東京改造計画」を読んで、ホリエモンの言うことは正論だけど、大多数の人は望んではいないと感じた話

7月5日に都知事選もあるとのことで、ホリエモンこと堀江貴文氏の「東京改造計画」を読んでみた。
結局、ホリエモンは立候補せず、ホリエモン新党から数名が立候補したようだが、そのあたりの作戦はよくわからない(今のところあまり関心がない)のでここでは言及しない。
東京改造計画 (NewsPicks Book)

東京改造計画 (NewsPicks Book)

 

 

さて、この「東京改造計画」を読んだ感想は、たしかに正論だし、合理的だし、私自身ホリエモンの意見には概ね賛成だけど、大多数の人たちは望んでいないことなんだろうな、というものであった。

さすが稀代の経営者、仮にホリエモン都知事になれば、東京都だけでなく日本という国は大きく前進するだろう。
ホリエモンが構想する未来を見てみたいし、こういう世の中になったら面白いだろうなと、率直に思った。
 
だけど一方で、大多数の人は、ホリエモンが実現したい世の中を望んでいないだろうな、とも思った。
 
この感覚、どこかで似たようなことがあったなと思って、ちょっと考えてみたら、それは娘や甥っ子の運動会を見たときに感じたものに似ていると気づいた。
うちの娘は幼稚園で去年はじめての運動会があり、また同時期に幼稚園年長の甥っ子の運動も見に行った。
そのときに感じたのが、良くも悪くも自分のときとフォーマットがまったく変わっていないな、ということである。
かけっこやって、玉入れやって、綱引きやって、たまに親たちが参加して…。
とくに年長の園児が隊列を組んで組体操をやっている姿を見て、これはおそらく戦争があった時代、いやもっと前の明治の時代から変わっていないのではないだろうか、と思ってしまった。
そして、そのことに対して、子どもはもちろんのこと、先生も親たち(じいちゃん・ばあちゃんも)も何の疑問を持っていないんだろうなと感じたのである。
 
運動会のフォーマットは、われわれの親世代と今とで変わっていないだけでなく、じいちゃん・ばあちゃん世代とも変わっていない。
おそらく明治維新以降につくられた教育現場のフォーマットが変わらずにずっと継承されてきているのであろう。
そのこと自体どうかとは思うが、ここではその是非については議論しない。
 
ただ、多くの先生たちにとってそのフォーマットを踏襲することが当たり前のことで、変えるインセンティブもなければ、その発想すらないと思われる。なので、当然変えたいということにはならない。
また、親たち(じいちゃん・ばあちゃん含めて)も、自分たちが知っている運動会を子どもたちがやっているのを見たいと思っており、何か違う運動会にしたい、変えたいとは思っていない。
だから、もし新しいフォーマットの運動会というものがあったとしても、それを提示されたとしても、誰もそれを望んでいないのである。
また、もう時代にそぐわないからと、運動会を止めようという意見が出たとしても、上記の理由から多くの人たちは反対するのではないだろうか。
要するに、大多数の人たちはこれまでやってきたことをそのままやることに何の疑問ももっておらず、変わることを望んでいないし、そういう発想すらないのである。
 
この「東京改造計画」の中の教育に関する記述で、ランドセルは不要だし、とくに1年生にとっては大きすぎるし、毎日多くの荷物を持ち運びするのは合理的でないとホリエモンは訴えている。
このことには私も賛成だし、自分の経験からもランドセルや教科書の持ち帰りなんてやめてしまえと思う。
しかしながら、このランドセルの廃止1つとっても、大多数の人たちは望んでいないのである。
子どもたちは当然のように小学校に入ったらランドセルということでほしがる。
親たちは(自分たちが経験してすぐに飽きるのをわかっているのに)子どもがランドセルを背負っているところを見たいと思う。
じいちゃん・ばあちゃんは、孫にランドセルを買ってあげたいと思う。
といった具合に、関係者の誰もランドセルの廃止なんか望んでいないのである。
 
ホリエモンも言うことはいちいち合理的で正論だし、ホリエモンが構想する未来を私も見てみたいとは思うけど、多くの人たちはそれを望んでいないし、それゆえ時代を前に進めるのは難しいんだろうなと思った次第。
私ももう少し若いころは、なんで正しいことなのに、みんなそれがわからないんだ、と憤ったものだが、最近は年を取ったせいか、そういった感情も薄らいできた。
時代はちょっとずつしか変わらないし、それはそれでいいのかもなと思ったりもしてきている。
長い目でみたとき、どちらがいいかわからないし、自分の影響力を及ばない範囲のことをあれこれ悩んでも仕方がないということに気づいたということであろう。
 
ということで、自分の課題に集中しようと思ったという話でした。