ググればわかることは覚えなくてもいいのか

昨日の記事に続き、「スマホ脳」の話。
この本の中で、グーグル効果とかデジタル性健忘と呼ばれるものが紹介されていた。別の場所に保存されているからと、脳が自分では覚えようとはしない現象のことである。脳は情報そのものよりも、その情報がどこにあるのかを優先して記憶する、とあった。
 
この一節を読んで思ったのは、ググればわかることは覚えてなくてもいいのか、という問い。
これは多くの識者も言っていることで、今や一人一台スマホがある時代で、ググればわかるような情報を詰め込む必要はないという主張も多い。
 
この主張に関して、私は100%否定するわけではないが、常々疑問に思っていた。
その理由は2つ。
 
1つは、会話の中でうろ覚えな情報を調べるのは難しいから。
ちょっとしたものや現象についてや、その名前が思い出せないとなったときに、会話を遮ってまでスマホで調べることはなかなか難しい。
会話にはペースやリズムがあって、それをこわしてまで中断できないことのほうが多いように思う。
会話を遮ってまで調べる必要がない事柄に関しては、特段覚えておく必要もないという意見もあるかもしれないが、やはり知識や情報の引き出しは多くもっておくことに越したことはない。
さらには、往々にして、スマホがあるからググればわかることは覚えなくてもいいという人は、博識で多くのことを知っている印象があったりする。
 
もう1つが、きちんと理解しておいたほうが説得力を増すから。
構造的なことはきちんと理解しておいたほうがいいのは当たり前のこととして、ちょっとした名称もきちんと覚えておいたほうが説明に説得力を増す。
例えば、「年を取るごとに時間の進み方が早く感じることよくあるよね」と話すよりも、「ジャネーの法則で言われているように…」と話したほうが、説得力があるように聞こえる。
この「ジャネーの法則」という名称を覚えておくかどうかで、自分の話に説得力が増すのであれば覚えない手はないと思うわけである。
 
さて、今回「スマホ脳」を読んで、もう1つ理由が付け加わった。
それは、自分の頭で覚えておかないと、他の何かと組み合わせて、新たなアイデアは生まれないから。
とある情報や知識に関して、そのありかだけを覚えていても、自分の頭できちんと理解しておかないと、その情報と他の情報とか結びつかない。
あくまでも情報が頭の中にあるからこそ、自分の頭の中で融合するわけで、記憶装置が外にあれば結びつくはずがない、ということを認識することができた。
 
だとすれば、あらゆる情報や知識を自分の頭の中に入れ込むことはもちろんできないわけではあるが、少なくとも興味関心があり、必要だと思われるものは、あそこに書かれているからいいやではいけない。
きちんと、自分の頭で理解して覚えるということを怠ってはいけない、そう思った次第である。
 
ということで、ググればわかることでも覚えておいたほうがいい、という話でした。

スマホがなかったから読書好きになれた

スマホ脳」という本を読んだ。
2021年に1番売れた本という触れ込みにも関わらず、恥ずかしながら最近まで知らなかったのだが、最近複数でこの本のことを聞いて手に取ってみた。
読み始めてから知ったのだが、作者のアンデシュ・ハンセン氏は「一流の頭脳」も書かれた方とのことで、こちらも面白かったので、これは間違いないと思い読み進めた。

 

内容としては、いわゆる進化生物学に基づいた人間の脳のしくみから、スマホSNSなど最近登場したテクノロジーが、われわれの生活にどういった影響を与えるのかを丁寧に説明している。
この手の進化生物学の話は、「サピエンス全史」や「ファスト&スロー」「利己的な遺伝子」あたりとも相通ずるものがある。
人間の脳や身体はサバンナの時代から変わっておらず、これだけ発展した現代にはマッチしていない。だからこそ、人間は合理的な判断ができないし、不合理な選択をしてしまう、というやつである。
スマホ脳」でも同じ文脈上で、人間の脳はスマホSNSに過度に反応してしまうことが、詳しく解説されている。情報の誘惑に抗えないのである。
 
さて、この本を読んでの最初の感想が、私が社会人になった時代にスマホがなくてよかった、ということ。
 
私は2000年代はじめに社会人になったのだが、就職したときの通勤の地下鉄路線が激混みで、人と人の間にまったく隙間がないくらいだった。
最初は電車に乗るで一苦労、乗っている最中もバランスを崩さないように立ってるのが精一杯だったのだが、徐々にその中でもマシなポジションを得るコツをつかんでいった。そうなると、今度はそこでどうやって暇を潰そうか考えたのだが、いろいろ試した結果、本を読むのがいいとなり、そこから読書を習慣化することができるようになった。
 
このとき、もしスマホがあったなら。
今と同じようなアプリがあったとすれば、まず間違いなくTwitterを見ていると思う。Twitterを確認した後でも、いくらでも時間をつぶすことができるアプリがある。
当時の携帯は、いわゆるガラケーで、iモードでインターネットには接続できていたが、コンテンツや通信速度を考えると、電車の中で暇を潰すにはまだまだ物足りないもので、せいぜい野球の途中の経過を確認するくらいだった。
もしガラケーではなくスマホだったら、読書習慣はできないまま今日に至っていたであろうし、そう思うとちょっとゾッとする。
 
現在、私の読書量はピーク時の半分以下。その原因の大きなところはやはりスマホにあるのかもしれない。
このブログを書きながらも、何度かスマホを触ってしまう自分がいることに気づく。
そのくらい、誘惑の多いのスマホとどうつきあっていくか、ちょっと真剣に考えたほうがいいかもしれないと、この本を読んで感じた次第である。
 
ということで、スマホがあったら、本を読めない人間になっていただろう、という話でした。

ウイルスは口や鼻や目から入るが、口からしか出ていかない

私はたまに近くのスポーツジムへ行くことがあるのだが、このスポーツジムでは、「当スポーツジムから絶対にクラスターは出さない」というポスターまで貼って、徹底した感染対策を訴えかけている。
それ自体は悪いことではないのだが、ルームランナーで走っていてもマスク(しかも鼻まで)は必須など、少々やり過ぎかつ、バランスの欠いた感染対策が未だに続いている。
 
発熱者や風邪の症状がある人はいないという前提であれば、ウイルスは基本口からの飛沫でしか出ていかない。
マスクは基本的にウイルスをもらわないためにあるのではなく、人に感染らないようにするためのもの。であれば、口さえ覆っていれば問題ないはずで、未だに鼻までのマスクの強要するのは、ちょっとやりすぎな気がする。
もっと言えば、まわりの人と話しながら走るわけでもないので、マスク自体走っている最中はいらないのだけど。
 
このスポーツジムに限らず、他にも未だにコロナ初期の(あまり意味がない)対策を延々をしているところが多い。
例えば、ビュッフェのビニール手袋。
感染対策やっている感は出て、安心な気はするけど、実質は手袋しててもしなくても変わらない。むしろ、1度料理を取って食べた後に、デザートを取りに行くのに同じ手袋をするのであれば、アルコール消毒した上で素手で料理を取ったほうが安全かと思われる。
 
他にも、トイレのジェットタオルを未だに禁止していたり、フタをしめてから流すようにという張り紙なども。
風や水流でウイルスを撒き散らすことは考えにくいという公式な見解が出ているにも関わらず、2年半経った今でも続けているところは多い。
 
事程左様に、不要な感染対策はまだまだ多い。
こういった感染対策が残っている理由はいくつか考えられるが、1番大きなものは、どうすれば感染するのか、ということを具体的に考える人が少ないからだろう。
コロナの感染は飛沫感染がメインということは、2020年の段階で分かっている。加えて、熱のある人や咳をしている人はいない前提で考えれば、感染が起こるのは会話しているときがほとんどということがわかる。それであれば、マスクを外しての長時間の会話以外は、感染確率はかなり低いと考えることができる。
このように感染のメカニズムがわかっていれば、どこまで対策する必要があるか判断できるのだが、多くの人はそこまで理解しようとしないので、未だに意味がないものが残ってしまうのである。
 
加えて、責任回避の志向が働いてしまうということもあると思われる。対策を緩くして、万が一にも感染が起きたらいけないと考えてしまう人がいても不思議ではない。
 
ただ、幸か不幸か、これだけ感染者数が増えていて、どこで感染したかを追及するような雰囲気でもない。
そろそろ意味のない感染対策は止めてしまえばいいのではないかと思うのだが、どうだろうか。
 
ということで、未だに過剰で意味のない感染対策が残っている、という話でした。

考えたことを書くのか、書くために考えるのか

このブログ、2018年に始めて以来細々と続けているが、ここ2年くらい毎日更新を続けている。
ただ、たいした毎日を送っているわけではないので、毎日毎日書きたいことが思い浮かぶわけでもない。たまには、というかかなりの頻度で何を書こうか悩むことが多い。
もともと、経営について考えたことや読んだ本についてまとめたいと思ってはじめたブログなのだが、毎日更新をはじめてからは、書くために(半ば無理やり)考えることも多い。
ここだけ取り上げれば、手段の目的化とも言える。
 
ただ一方で、書くために無理やり考えることで面白いアイデアが思いつくこともあるし、書くことによって次のテーマやネタが見つかることも多い。
無理矢理にでも考えて手を動かすことで、考えを整理できるし、書きたいことが数珠つなぎで出てきたりしている。
そういう側面から見ると、鶏がさきか卵がさきかの議論とも言える。
 
アウトプットを意識したインプットではないと意味がない、とよく言われるが、何か書き残そうと思うからこそ、解像度を上げてインプットしようという心持ちになるということなのだろう。
私の場合も、書くことを意識することで、これまで見過ごしがちだったことに焦点を当てて考えることが多い。
 
とはいえ、それでも書くことがない日も多い。
そんなときはお茶を濁すようなテーマで書くことになる。
それでも書くことで、次の日も継続できる。その日、どうしても各テーマがないからといって書くのを止めてしまうと、おそらく次の日以降も、ネタがなければ書かなくていいやとなり、次第に更新頻度も下がってしまうであろう。
 
読者もほとんどいないブログなので、それで誰かが困るとか悲しむということもないのだが、書いているほうからするとせっかく継続してきたことが止まってしまうのはちょっとやるせない。
だから、ネタがないときもどうにか振り絞って書いているのだが、これはこれでいいのかなと思っている。
 
継続が大事なのか、思考の整理が大事なのか、よくわからないが、とりあえずその両面が成り立っていると思ううちは、細々とこのブログを継続していきたいと、ぼんやり思った次第である。
 
ということで、書くことが思い浮かばなかったので、お茶を濁してみたどうにか振り絞って書いてみた、という話でした。

仕入れ値の値上げ分しか売値に転嫁できない会社

直近、エネルギーや資源の物価高を受けて、消費財の価格も上がってきている。
直近の値上げは、川上での昨年分の値上げが川下まで浸透してきたもので、現在も川上価格の高騰は続いており、消費財の価格の上昇は今後もしばらくは続くであろう。
 
一方で、日本の消費者は、30年続くデフレの影響で、値上げを断固拒否する習性がついてしまっている。そんな消費者からソッポを向かれては困ると、日本企業の多くはちょっとやそっとのことでは値上げに踏み切れずにいた。
 
そんな状況の中、直近の物価高を受けて、仕入れ値を売値にどう転嫁していくかは企業の今後を占う意味で大変重要な経営課題になってきているように感じているが、それぞれの企業の対応は以下の3つに分かれている。
 
1.仕入れ値の上昇分も、売値に転嫁できない会社
2.仕入れ値の上昇分しか、売値に転嫁できない会社
3.仕入れ値の上昇分以上に、売値を上げることができる会社
 
1のような会社は存在しないのではないかと思われるかもしれないが、案外多いというのが私の実感。うちの会社の客先でも、その先のお客さんに価格の転嫁ができないので、値上げは飲めないと言ってくる会社は(多数ではないが)存在する。
では、こういう会社はどうなるか。客先が値上げを許容してくれないから、仕入れ値を抑えようとするが、すると供給先から売ってもらえなくなる。
これまでは買い手が強い商慣習だったので、それが今でも続いていると錯覚しているようだが、少なくともB2Bではそうではなくなっている。これまでの仕入先が値上げするのであれば、他の会社から買えばいいやと思うのだが、そちらでも値上げである。少しでも安いところから買おうとするのだが、売り手も安くはできないので、徐々に仕入れが難しくなってくる。
仕入れ値を抑えて、売値をキープしようという試みは早晩うまくいかなくなり、ジリ貧になるのは目に見えている。
 
では、2のような会社はどうか。1の会社よりマシに見えるが、これはこれで問題がある。
最近の物価高を受けて、仕入れ値の上昇分については売値に転嫁しても受けいれてもらえやすくなっている。
しかし、仕入れ値分しか転嫁できなければ、人件費(=従業員の給料)は上げることができないので、インフレ傾向が加速すると、従業員の実質的な給与は下がることになる。
加えて、設備が老朽化しても新たに更新することもできないので、事業の存続が立ち行かなく可能性もある。
仕入れ値分だけしか、売値に転嫁できない会社もジリ貧になってしまうでのある。
 
となると3しか道は残されていないのだが、これが言うは易く行うは難しである。
うちの会社も現状は2で、営業マンは仕入れ値の上昇分だけを転嫁するだけで精一杯と思っている。でも、それは上述のようにジリ貧になってしまうので、仕入れ値分の値上げでは足りないことをしっかり認識してもらう必要がある。
加えて、経営者としては3のように余裕をもった値上げができる事業を構築していかないといけない。なかなかの難題だが、ここから逃げずに真剣に考え続けたいと思った次第である。
 
ということで、仕入れ値分だけの値上げのではジリ貧になる、という話でした。

改めましてこんにちは

日本語の誤用シリーズ。
最近よく聞くのが、「改めましてこんにちは(こんばんは)」。
 
会議や会合の最初に主催者が挨拶することがあるが、そのときにこの「改めましてこんにちは」がよく使われる。
この「改めまして」、意味としては「再び」が適切かと思うが、会の最初の挨拶なのにどこが「再び」なのだろうかといつも不思議になる。
 
不思議になると書いたが、挨拶している人の気持ちはだいたい察しはついていて、会が始まる前におおよそのメンバーとは挨拶をしているので、会のはじまりの挨拶(紛らわしい)で「こんにちは」というときは2度目ということで、「改めまして」と言っているのであろう。
ただ、会の前に挨拶していない人からすれば、今日はじめての「こんにちは」で、「再びこんにちは」不自然であるし、そもそも会の始まりの挨拶なのだから、「改めまして」なんて言う必要はないのである。
事前に挨拶していない人からすると、そういった人たちのことが頭に入っていない印象を受けてしまうことになりかねない。
 
だいたい、この「改めまして」を使うのは、内輪の会議や会合のときが多い印象がある。オフィシャルな感じの会合では、不特定多数の人が参加していることから、挨拶をする主催者から見て事前に挨拶をしている人が限られていることもあり、あまり使われないように感じる。
 
「改めまして」を使うとしたら、会議と懇親会がセットであって、そのどちらでも挨拶をしないといけない場合、後半の懇親会の挨拶のときだろう。
大半のメンバーが会議にも懇親会にも参加するのであれば、会議の挨拶で「こんにちは」と言っているので、懇親会のほうの挨拶では「改めましてこんにちは」としても違和感はない。
 
今回の「改めまして」は社内でもけっこう使われていて、いつも気になっている。
使っているほうからすると、言葉がもつ意味を考えずに何の気なしに見様見真似で使っているだけで、悪気があるわけでもないし、このケースだと必ずしも間違っているとは言い切りにくい。
一方で、言葉が持っている意味をいちいち確認することを怠るなというメッセージも込めて、注意したほうがいいかなと思ったりもする。
でも、社外で出るようなことがなければやっぱりいいかと思ったりで、どうでもいいことでけっこう悩んでしまう自分に呆れたりもしている。
 
言葉は常に変わり続けるものなので、何が正しいとは言い切れないが、とりあえず違和感があった言葉は意味を調べるくらいはしておきたいと思った次第である。
 
ということで、誤用とはまでは言い切れないかもしれないが、毎度「改めましてこんにちは」に違和感を覚える、という話でした。

会社の未来は経営者しか語れないのか

先日、うちの会社の来期の計画を立てる会議があった。
会社を取り巻く環境を確認することができ、これから年末にかけて具体的な数値計画に落とし込むための準備ができた、有意義な会議になったと思う。
 
さて、その中で、5年後の会社を想定して、どうなったら成長したと言えるか、どういう成長を目指すべきか、という問いを参加した管理職に投げてみた。
会社の成長といえば、売上高の継続的な増加を意味することが一般的だと思うが、私自身、売上だけではない、違う種類の成長を模索してみたいと思いもあって、上記のお題について考えてもらった。
 
何か興味深いが答えが出てくることを期待していたのだが、結果として出てきた答えは、売上や利益をちょっと具体的にしたものか、何かつくってほしいという要望のようなものかになってしまった。
答えを聞いたときはちょっと残念な気持ちになったのだが、次の瞬間、これは仕方ないなと思い直した。
 
その理由は2つ。
 
1つは、会社の成長の定義は、経営者にしかできないことだと気づいたから。
経営者自身が思いつかないことを、会議の場で管理職に考えてもらったところで、良い答えが出てくるはずがない。前から薄々わかりながらやってもらったことで、冷静に考えれば、無理がある。
これは、能力云々の話ではなく、構えの問題で、経営者とそれ以外の人たちではスタンスが違うのである。
この問題は経営者である私自身が考えないといけない問題だったことに遅ればせながら気づくことができた。
 
もう1つは、会社の成長と言ったら、これはやはり売上が増えていくことしかないのではないかと思ったから。
このことについては、私自身が考えきったわけではないので、言い切ることはできないが、会社の「成長」という言葉を使う限り、それはやはり売上の継続的な増加を意味すると考えるのが自然なのだろうと思う。
売上以外の数値が大きくなることを考えたときに、利益が増える分にはどこかで頭打ちがくるし、従業員の給料だって利益が増えなければ上げることができないので同じことである。
だから、成長を目指すと言ったら、やはり売上を伸ばしていくことを考えるべきだし、それが目標にならないと判断するのであれば、成長という言葉は使わないほうがいいのだろう。
 
ただ、まだあまり深く考えていなかったので、私自身が考えるべき問いとして、年末にかけてもう少し深掘りしてみたいと思う。
 
ということで、経営者自身が考えつかないことを、部下に考えさせてもいい答えが出るはずがない、という話でした。