私にとっての定点観測は、データを見続けることかもしれない

先日「嫌われた監督」という本を読んで、定点観測しつづけることの重要性について学ぶことができた。
中日監督時代、落合監督はいつも同じ場所から選手を観察し続け、立浪や井端の守備力の衰えを察知したというエピソードが紹介されていた。
 
それ以来、私にとっての定点観測とは何だろうか、と考え続けていたのだが、2つほど仮説が出たのでここでまとめておきたい。
 
1つは、決めたデータを見続けるということ。
経営に関するデータは社内外問わずさまざまなものがある。
その中でこれは決めたデータを見続けることが、私にとっての定点観測に当たるのではないかと思ったわけである。
 
もちろん、これまでも各種データを見ているのだが、その中でも重要かつ長期的にウォッチすべきデータに焦点を当てて、確認し続けるということが大事なのではないかと感じている。
ここでは「長期的」というのがキーで、少なくとも3年くらいは追いかけていく指標のことを意味している。
そのためには、年に1,2回は立ち止まって何のデータを見るかを考えることが大事で、そのタイミングで追加するデータや削除するデータを見直して、追加した項目については少なくとも3年くらいは追っかけて見続けたいと思う。
 
もう1つは、在庫。
うちの会社では工場を運営していて、私も定期的にパトロールをするのだが、そのタイミングで在庫量をチェックするのが大事なのではないかと思った。
もちろん在庫に関するデータはあって見ているし、現場に行くと在庫が多いとか少ないとか感じるのだが、データと見た目の在庫をリンクさせて確認するという意識的にはやっていなかった。
なので、工場の定期パトロールの際に、在庫データの確認と現場の在庫量の目視で、在庫量がどう推移しているのかを肌で理解するということを意識的にやってみたいと思ったというわけである。
これがどこまで意味のあることなのかはわからないが、試しに意識してやってみようと思う。
 
こんな感じで私にとって経営上の定点観測として、思いついたものをまとめてみた。
他にもありそうなので、継続的に考えてみたいとは思うが、今回挙げた2つのことはさっそく取りかかってみたいと思う。
 
また、子どもの成長についても同じように定点から観察できることがありそうなので、こちらもあわせて考えてみたいと思う。
 
ということで、自分にとっての定点観測について考えたみた、いう話でした。

「新型コロナとワクチン わたしたちは正しかったのか」を読んで~ものごとの考え方編

先日のブログで紹介した「新型コロナとワクチン わたしたちは正しかったのか」。新型コロナのさまざまなトピックスをクリアに理解できたことに加えて、ものごとの考え方についても参考になる部分が多かったので、ここでまとめておきたいと思う。
医療は1対1の因果論ではなく、複雑なシステムを扱うため、どこまでいっても確率論の世界であるということ。
こうすれば必ず起こる、といった1対1の因果論で説明がつくことはまれで、医学の分野は人体やウイルスといった複雑なシステムの領域なので、どこまでいってもばらつきや確率での話になる。
ただ、私の印象では、この確率論を理解できている人は非常に少ない、何ごとも1対1の因果論で理解したがる人が多い。たとえば、ワクチンを打ったら必ず感染しないと理解してしまう。だから、ワクチン打ったのに感染したという「例外」が出てくると、ワクチンを打っても意味がないと結論づけてしまう。
本来は、どこまで言っても確率論でしか語れないので、ワクチンを打ったら感染する確率が低くなる、とは言えても、ワクチンを打ったら「必ず」感染しないとは言い切れないのだが、勝手に脳内変換してしまう人が多いことに辟易としていたので、本書を通じてこういった確率論の考え方が少しでも理解されればいいなと感じた。
 
2つめ。言葉をきちんと定義することについて。
本書では、何度も言葉を丁寧に扱う、言葉をきちんと定義して議論するということが、話題挙がっていた。
 
言葉を丁寧に、正しく用いることは極めて重要です。定義が定まっている言葉、誰が使っても同じことを意味する言葉を使うことで、思い込みによる誤解を避けることができ、議論や研究が初めてスタートできるからです。

 

この、言葉を定義をする、ということは私も大学時代の恩師から何度も言われたことなので、頷きながら本書を読み進めた。

 

本書では、共著者の山中氏が「新型コロナとかぜはどこが違うのか」という質問に対して、峰先生は新型コロナはウイルスの名前、風邪は病気の名前で、病気の原因と病気そのものを比較しようとしたのか、とツッコミを入れている。
これは何も意地悪をしようとしたわけではなく、(普通の)風邪と言っても、何を差しているのかがわからないということ。この場合の普通の風邪とは、新型コロナ以外の旧型コロナウイルスやライノウイルス、アデノウイルス、RAウイルスなどによって起こるウイルス性感染症のことを差していたのだが、他にも感染症としては細菌や真菌、寄生虫などの病原体によって引き起こされる病気もある。何と何を比較しているのか、それをハッキリさせたほうがいいと峰先生は言っている。
 
これはビジネスの世界でもよくあることで、ふわっとした言葉を使うことで、同じ言葉でも人によって違う意味をイメージしていることはよくある。
それぞれが同じ言葉でも違うことをイメージしていては、議論に時間がかかるばかりではなく、誤った結論を出しかねない。改めて、このことを肝に銘じておきたいと思った。
 
3つめ。1つの要因だけで説明しようとすることについて。
本書で、感染拡大を抑えるのはあわせ技である、という説明がされていた。
われわれはややもすると、ある特定の原因が結果に大きく寄与していると思いたがることがある。例えば、ワクチン接種が行き届いたから、第5波後の感染者数も大幅に減少した、といった感じで。しかし、ワクチンだけで集団免疫獲得は難しく、実際アメリカ、イギリス、イスラエルのように、ワクチン接種が進んだのでそれまでの制限を一気に解除したところ、感染が再拡大したという例は多い。
多くの人が、何か1つの大きなファクターで説明したいという欲求をもっているが、実際は小さいことの積み重ねの結果起こっているということも意識をしておきたいところである。
 
このことは、ビジネスにおいても同様で、ある1つの施策が業績に効いたのだと思い込みやすいし、そう説明したい誘惑に駆られる。
根本原因を捉えて、そこに集中して対応するという視点は一方では大事なのだが、それだけを盲信してしまっては、足元をすくわれてしまう可能性がある。
ある1つの打ち手だけでは決定打にならないということは往々にして起こるので、小さな打ち手も含めてコツコツやって、目標水準にまでもっていくという視点も忘れてはいけないと思った。
 
 
こんな感じで、本書では新型コロナやワクチンに関して、峰先生の「正解」をおしえてくれるだけでなく、「なぜがそれが正解だと考えるのか」といったものの見方、さらにはものごとの考える際の作法についてまで説明してくれており、非常に有益な1冊であると感じた次第である。
 
ということで、コロナに関する情報や知識だけでなく、ものごとの考え方についても学べる本の紹介でした。

「新型コロナとワクチン わたしたちは正しかったのか」を読んで~新型コロナの新たな知見編

この年末年始で、峰宗太郎・山中浩之著「新型コロナとワクチン わたしたちは正しかったのか」を読んだ。
前著「新型コロナとワクチン 知らないと不都合な真実」から約1年での発売だが、前著に含まれていた内容も端折らずにさらにわかりやすく説明してくれており、この1年で明らかになったことも書き加えられ、ウイルスや感染のメカニズム、治療薬やワクチンについて、論理を飛ばさずに丁寧に説明してくれている良書であった。
前作よりも、データも揃ってきており、その分落ち着いて解説してくれているという印象。オミクロンでの流行がはじまるこのタイミングに読むことができてよかった。
本書からはいろいろな学びがあったのだが、ここでは私がこれまで漠然としか理解できていなかったが、この本を通じてしっかりと知識を得ることができたことについて、2点まとめておきたいと思う。
 
1つめは、免疫系の暴走について。
この免疫系が暴走するということは初期の段階からよく聞いていたが、きちんと理解できていなかった。
体内のウイルス量は、中等症Ⅰあたりまでで最大化して、(酸素投与がはじまる)中等症Ⅱあたりからウイルス量は減っていき、一方で免疫系の暴走(サイトカインストーム)がはじまり、それを抑える必要が出てくるとのこと。
このあとの治療薬の話でも出てくるが、このウイルス量を抑えるのと、サイトカインストームを抑えるには別の話で、当然投与する薬も変わってくる。
また、サイトカインストームは普通の風邪ではまず起こらない現象で、ここは普通の風邪と大きく異なる部分であるということも理解できた。
無症状や軽症で終わるということは、免疫系が様々な症状を出すまでもなく、早々に新型コロナを圧倒してしまったということなのである。
 
2つめが、治療薬の話。
新型コロナの治療薬はざっくりわけると「ウイルスを殺す、増殖を止める」薬と「免疫系の暴走を抑える」薬があるということから話が進む。
前者は初期・軽症時の薬、後者は重症化時の薬と分類できるだろう。
 
さらに、新型コロナウイルス感染症(COVID-19)は、急性ウイルス性感染症であるということが、治療薬を整理するのに役立つ。「急性」で「ウイルス」が原因の感染症
急性とは、比較的短期間に症状が悪化することを意味する。慢性の逆。
ウイルスとは、生きている宿主の細胞内で繁殖する小さな病原体のことで、自己だけでは増殖できない。ウイルス性の病気は、細菌・真菌・寄生虫などが原因のものとは異なる。
 
これらの特徴と治療薬に求められることを丁寧に解説してくれている。
「急性」であるという特徴。
急性の逆の「慢性」のウイルス感染症ではいい薬が多く開発されているということだった。その理由は、ウイルスの増殖スピードが遅いから。ウイルス量を抑えることは比較的容易で、HIV(慢性のウイルス性感染症)については研究もかなり進んでおり、普通の人と同じような生活ができるようになっている(逆に急性の場合は短期間で体内からウイルスは排除されるが、慢性の場合は体の中に残り続けるので厄介であるという特徴はあるが)。
それに対して「急性」のウイルス感染症については、ウイルスの増え方がたった一晩で100万倍にもなるという速さのものもあるので、あとから薬で抑えるはかなり難しい。これまで特効薬といえるものは持っておらず、せいぜいウイルスが増えるスピードを少し遅くできるくらいのものだった。
こういった理由から、急性の感染症であるCOVID-19の治療薬の開発の難しいということが理解できた。
 
「ウイルス」が原因であるという特徴。
細菌は自分で増殖できるが、ウイルスは人間の細胞に入ってその細胞が分裂するのに伴って増殖するという違いがある。そのため細菌の場合はヒトには作用せず、病原体となる細菌にだけ効くような抗生物質などの薬を投与することができる。
一方、ウイルスの場合は細胞に潜り込むため、ウイルスだけに効く薬はつくりにくく、細胞にも攻撃してしまうため副作用が出やすい。
ここに、新型コロナを薬でやっつけるのが難しいもう1つの原因がある。
 
このように、新型コロナウイルス感染症は、急激にウイルスが増殖することで起こる病気であることから、一般的にはウイルスの増殖を抑える治療薬は難しいのだが、その中で各社がしのぎを削って新たな治療薬が開発されつつあるということが本書で紹介されている。
また、免疫系が引き起こす強すぎる炎症を抑えるための薬は、他の病気のために開発された薬の有効性が認められてきているとのことで、最適な使い方についてはまだ模索している部分もあるが、これから改善されるであろうとのことで、期待をしたいと思う。
 
治療薬に関して、もう1つ勉強になったこととして、薬で対処するということは血液中の薬の成分の濃度を高く保つことが必要で、予防の効果を発揮するためには、毎日飲み続けないとならず、副作用が起こる確率も上がる、ということがある。
それに対して、ワクチンは成分の血中濃度が上がるわけではなく、免疫系が反応がして体の状態が変わり、病原体がいる間、攻撃をし続けるというもので、仕組みがまったく違うものなのである。
よって、治療薬はワクチンを代替するものではなく、補完するもので、治療薬があるからワクチンはいらないとはならない。
また、治療薬は医療の逼迫を解消するという意味はあるが、流行をコントロールするという意味では効果はあまりない。
このように、治療薬とワクチンの役割の違いについて明確に理解できたことで、ワクチン接種をきちんと進めていくことの重要性も認識することができた。
 
以上、この本を通じて、個人的には治療薬の考え方についてかなり整理することができた。それ以外にも、ウイルスの基本的な知識から、ワクチンや変異ウイルスについて、詳しく解説がされており、強くオススメする。
 
ということで、オミクロンの感染が広がる中、右往左往せずに対応するために、本書から基礎的かつ有効的な知識を得てみてはいかがだろうか、という話でした。

雪の上を滑ると、感覚の世界に入ることができる

このブログの昨日の記事で、初めてスノボに行った話を書いた。
3回くらい行かないとその楽しさはわからないかもしれないと思っていたが、予想に反して1回目からかなり楽しむことができ、早くも次また行きたいと思っている。
 
なぜそう思えたのか、ちょっと振り返って考えてみると、思ったより早くコツをつかむことができ、単純に自分としてはうまく滑ることができたということもあるのが、加えて感覚の世界に入ることができたことも大きかったのではないかと感じている。
 
「感覚の世界」とは、ドラマ「サ道2021」のあるシーンで使われた次セリフから引用させてもらっている。
「サウナに入ると雑念が消えるのは、思考から感覚の世界に切り替わるから」
「余計なことを考えることが消え、今この瞬間に気持ちがフォーカスされる」
(「サ道2021」第2話より)

 

この「感覚の世界」の対になる概念は「思考の世界」かと思うが、普段過ごしている時間をこの2つで区切ったとき、今回スノボで雪の上を滑っているときは、感覚の世界に浸ることができた、というわけである。
そして、そのことがまたスノボに行きたいと思わせているのではないか、と感じている。
 
思えば、最近ハマっている趣味は、この感覚の世界に浸れるものが多い。
上述したドラマのセリフではないが、サウナはここ2~3年でかなりハマっている。サウナ、水風呂、外気浴と、それぞれの時間で感覚の世界に入り、無の境地になれる。
また、3年前にはじめたキャンプでは、娘が寝た後に焚き火を見ながらボーッとする時間が何物にも代えがたい。設営や撤収作業は大変で、キャンプに行っている時間の大半は設営か撤収なのだが、それでもキャンプに行きたいと思うのは、この焚き火を眺める時間が貴重だと思えるからである。
 
こうやって振り返ってみると、普段経営者としていろいろと考えることは、私の重要な仕事だし、それ自体は好きなことなのだが、一方でどこかで無意識のうちに、思考のスイッチを切って感覚の世界に浸りたいという欲求があるのかもしれない。
感覚の世界に浸る時間をつくることで、頭の中がリセットされて、さらに考える気力を回復されているという感じもする。
 
今回スノボをやってみようと思ったきっかけは、妻に一人の時間をつくるために子どもたちとできるアクティビティを考えた結果だったのだが、思いがけず感覚の世界にも浸ることができ、一石二鳥になりそうだなと感じた次第である。
 
ということで、感覚の世界に入れる趣味をもっと増やしたいと思った、という話でした。
 

やはり1回だけでなく、2~3回はやってみないといけないという話

昨日のこのブログの記事で、今シーズンは娘とスノーボードのチャレンジしたいと思っている、ということを書いた。
 
スキー場でボードとウェアはレンタルするにしても、ニット帽・手袋・ゴーグルはレンタルがないとのことだったので、前日ドライブがてらスポーツ店に行き購入。
夜にはYouTubeでスノボの滑り方の動画をチェックし、翌日、満を持して娘(6歳)と二人で、スキー場へと向かった。
 
スキー場には予定通り10時前に到着。そこからレンタルハウスに向かうも、ここではクレジットカードの対応をしていないということで、売店で支払いをするために、レンタルハウスと売店を何往復かすることに。さっそく出鼻をくじかれる。
とはいえ、一瞬スキー場から往復1時間くらいかけてお金を下ろしにいかないといけないのかと思ったので、場内で支払いができてホッと一安心。次来るときは現金をきちんともってこようと心で誓い、借りたウエアに着替えて、ゲレンデに向かう。
 
さすがにド素人(というか初めて)の二人、しかも一人は幼児という組み合わせでは、どうしていいかわからないので、さっそくレッスンの申込み。
娘の幼児のレッスンに親子同伴で参加した。幼児向けのレッスンということもあり、私にもわかりやすく初歩の初歩からおしえてもらうことができた。
 
レッスン終了後、さっそく挑戦ということで、一番低いリフトに乗って初心者向けゲレンデに向かった。
YouTubeでのイメージトレニーニングと、娘の幼児用レッスンとで、どうにかなるだろうと思っていたのだが、さっそくリフトに降りるところでつまづく。
文字通りつまづき、バイトらしきスタッフに「危ないのでそこから離れてください」と注意されてしまう。
 
ここでテンションはダダ下がりであったが、めげずにシューズをボートに装着。
娘からはいっしょに滑ろうとか、助けてね、と言われるがそんな余裕はない。
どうにか立ち上がっても滑りはじめるのと、ほんの数メートルも進めずにこけてしまう。
そうやってもたもたしているうちに、娘は板をうまくコントロールできないのもあって、さっさと下まで滑っていってしまう。
さすがに娘が心配になり追いかけようと思うのだが、ビビリな性格も相まって、板は一向に前に進まない。ちょっと進んではコケて、またちょっと滑ってはコケての繰り返しである。
 
娘に置いていかれ、何度もコケて立ち上がるたびに脚やお尻の筋肉がつりそうになって、なんでスノボなんてやろうと思ったのか、ちょっと前の自分を恨んだ。
このために買った、ニット帽もゴーグルも手袋も無駄になるなとも思った。(ニット帽は他でも使えそうだが)。
そして、リフト券も5回の回数券を買ったことを強烈に後悔した。
 
正確に時間を測ったわけではないが、体感的には200mのコースを15分くらいかけて降りてきた感じで、どうにかこうにかやっと下まで辿りつき、娘と合流。
正直、これでもう帰ろうと思った。
 
思ったのだが、時間はまだあるし、何よりリフト券があと4回も残っている。さすがにこのまま帰るのはもったいないと思い返し、あともう1回だけやって帰ろうと再びリフトで上った。
さっそくリフトから降りるときにまたコケてしまったのだが、気を取り直して滑り出すと、1回目ほどはコケずにどうにか板をコントロールする感覚をつかむ。
これはちょっと滑れるかもしれないと思い、もう1回行ってみようとリフトへ。3回目ともなると、はいわゆる木の葉すべりという滑り方がわかってきて、体感的には2~3分くらいで下に降りることができた。
こうなってくると楽しくなり、結局リフト券5回分を使い切ることができた。
 
前回のこのブログの記事では、3回くらいはスノボに行ってみて、それで続けるか断念するか決めようと思うといったことを書いたのだが、期せずして初回でそれを体感することになった。
リフトに乗ってそこから滑って降りるという体験自体、1回で判断せずに、2回目・3回目をチャレンジしたおかげで、どうにか滑れて楽しいという感覚までもっていくことができたのだった。
最初なかなか滑ることができず、娘にも置いていかれるという経験だけで終わっていれば、おそらくもう2回目のスノボはなかったであろう。
 
こんな感じで、スノボ初日、最初つまづくも、結果的には楽しいイメージをもって帰路につくことができた。さっそく次回はいつにしようか考え、また滑りたいと思っている自分がいる。
 
ということで、やはり1回だけで諦めてはいけない、という話でした。

新しく趣味をはじめるときは3回くらいはやってみたほうがいい

ちょうど1年前くらいから、スノーボードをはじめてみようかと思ってきた。
正直なところ、生まれてこの方滑る系のスポーツは苦手で、アイススケートはうまく滑れた試しがないし、スキーも小学生のころに父親の何かの会でのイベントで1回、大学のときのサークル仲間と数回行ったが、一向にうまくならなかった。
それ以来、これらのスポーツを避けてきたわけだが、ではなぜ今になってスノボに関心をもったのか。
 
それは子どもと一緒に行ったら楽しいかもしれないと思ったから。
 
娘が6年前に生まれてから、妻に一人の時間をつくるために、娘と二人で出かけるようにしてきた。
2年半前からは、キャンプがいいのではないかということで、アウトドアはまったく興味がなかったのだが、娘と出かけるようになり、そこそこハマった。
その延長線上で、ふと冬はスノボがいいのではないかと思い立ったのだが、そう思ったのは、昨シーズンが終わりかけだったので、今シーズンはぜひ挑戦してみたいと思っていた。
これがうまくいけば、春夏秋のキャンプに、冬のスノボと、子どもたちと出かけるのにいい趣味になるのではないかと思っている。
今1歳の息子もあと2年くらいすれば参加できそうなので、向こう10年くらいは楽しめそうである。
 
ところで。こうやって新しく趣味をはじめるときは、数回はやってみないとダメだと思っている。
なぜなら、最初からうまくいくことはないから。
 
わかりやすい例を挙げるならゴルフ。
はじめてラウンドを回ってすぐにうまく打てるということはまずない。
最初は打球の行き先が安定しないので、ボールを複数個もって、クラブも何本かもって走り回らないといけない。
ほとんどの人は、初回は楽しくないだろうし、もうやらないと思うのではないだろうか。
ただ、初期投資の額が大きいということもあり、いやいや数回やるうちにハマっていくというのがセオリーかと思う。
 
私の場合、上述したキャンプも初回はまったく思ったとおりにいかなかった。
設営に3時間くらいかかり、準備できたときにはもう真っ暗。さらには準備したランタンも少なく暗い中での夕食。撤収も思ったようには行かずチェックアウトギリギリ。
事前に想像していたのとは違うし、何しに来たんだろうの連続だったが、その後数回やってようやくどうにかサマになってきた(まだまだキャンプ10級くらいだが…)。
 
こんな感じで、1回だけの経験で判断をしてしまうと、たいていの趣味は継続できないと思う。
数回やってみて、それでも楽しさを見出すことができなければ仕方ないが、初回でやめるのはもったいない。
今回のスノボも、2~3回はトライしてみたほうがいいだろう、と思いながら、娘と二人で初めてのスキー場に行ってきた、という話は次回に。

はじめて手書きの日記を書いてみた感想

私の今年の目標の1つに、日記を手書きで書いてみる、というのがある。
先日、このブログでも書いたが、手書きの日記に憧れのようなものをいただいている一方、めんどくさそうなので、これまで躊躇していた。
躊躇していたのだが、年も変わるし、ちょうどノートも買い替えの時期だったし、ということで新しい年から手書きの日記に挑戦してみた。
 
そう決意して、ノートも買って準備はしていたのだが、年明けは会社の全社会議の資料をつくらなければならないということで、実際に書くのは後回しにしていた。
その全社会議も無事終わり、そろそろはじめないと書いていない日が溜まってしまい頓挫してしまうおそれもあるので、ようやくノートを開き、5日分の日記を書いてみた。
 
とりあえず書いてみた感想は以下のとおり。
まず、当初予想していたもので、その予想どおりだったのは、書くスピード。
頭で考えるのと、手で書くアウトプットのスピードが合わない。
パソコンのタイピングでも、頭で考えるほうが速いので、追いつかないのだが、それでも手書きよりはマシ。手で書くことによるタイムラグが気になってしまう。
 
次に、書くスピードを頭で考えるスピードに合わせようとする結果、字がきたなくなるということ。
もともと丁寧に書けばそれなりにきれいに書けるとは思っているのだが、頭の回転にあわせようとすると丁寧に書くとはならず、どうしても雑な字になってしまう。
ただ、本来であれば、ゆっくり考えて書くのが日記の醍醐味なのかもしれない。書き急ぐことが自体が間違いで、もっと丁寧に考えて書くことを意識してみたい。
 
あともう1つ問題なのが漢字。
パソコンでのタイピングあれば自動変換してくれて、候補の中から選べばいいが、手書きだとそうはいかない。
都度、パソコンやスマホで調べないといけないので、スピードやリズムを妨げてしまう。
漢字が思いつかない、というのはちょっとストレスに感じてしまう。
 
細かいところで言えば、ペンのインクの出が安定しないとか、最近老眼が進みはじめていて書いた文字が見にくいとかあるが、このあたりは慣れていくのだろうか。
 
と、こんな感じで問題はいろいろと出てきて、書き始めたときは正直やめておけばよかったと思ったのだが、書き進めていくうちに、ちょっと楽しいなという感情も出てきた。
正直なんで楽しいと感じたのかはよくわからないのだが、とりあえずは1ヶ月はやってみようと決めているので、いい面とめんどくさい面の両方を確かめてみて、それ以降続けるかどうか判断したいと思う。
 
ということで、手書きの日記をはじめてみました、という話でした。